コンサルタントのつぶやき#8~ベテランコンサルタントとして③(250121)
前述しましたが、私は16歳のときに骨肉腫にかかりました。
初めての日本での術式にトライしていただき、運良く足を切断せずにすみました。
しかし、腫瘍が右大腿骨にできたために、右大腿骨、右膝、右大腿四頭筋を大きく切除し、大腿骨の代わりにステンレスの人工骨、右膝を人工関節に置換しました。
ほぼ2年間の化学療法、抗がん剤を投与し、治療は終了しました。5年間は転移リスクが高いということもあり、生きた心地がしませんでしたが。
日本で最初の手術であり、最長不倒記録を続けていました。元来、スポーツ好きであったため、ダブルスのテニス、ゴルフ等も足をひきづりながらプレイしておりましたが、手術から25年目の大学院博士課程7年目のある日、寝ぼけて二階の階段から滑り落ちました。
その1ヶ月後の11月の寒い日に茨城でお客様とゴルフをプレイ中に(3番ホール)、足に尋常でない痛みを発し、ゴルフ場に頼んで救急車に乗せてもらいました。しかし、足に金属が入っているため、茨城県一斉救急がかかったものの、どこの病院にも受け入れられませんでした。救急車の中から16歳のときに手術していただいた主治医に連絡を取ったところ、今、病室は空いていないが、明日には空くので、何とか茨城で一晩過ごし、救急車で帰京しなさいとのことでした。その旨を告げると、茨城のある病院が一晩、面倒を見ましょうとのこととなり、病院に搬送されました。レントゲンを取ったところ、金属の人工骨が折れているとのことでした。そして翌朝、茨城から東京に救急車で搬送されました。ドクターヘリで搬送するかという話もありましたが、命に別状はないのでダメということになりました。2時間近くかかって救急車で搬送された病院の救急窓口には、私が16歳のときに入院していた際、20歳だった看護師さんが婦長として出迎えてくださりました。“お久しぶり!”と(笑)。
そのまま個室に入院、ギブスを巻いて、1週間後に手術となりました。“折れた金属の骨がうまく抜ければよいが、抜けなかった場合は最悪、右足を切断するというリスクがあることを覚悟してください。”という誓約書にもサインしました。
16歳の手術の際は、フルカスタム・オーダーメイドの人工骨と人工関節でしたが、今回は世界標準モジュールの人工骨と人工関節とのことでした。そのため、1週間で手術ができました。ちなみに日本における人工関節手術症例数とアメリカの人工関節手術症例数は6倍以上違うようです。そのような面からもアメリカの人工関節が世界でデファクトスタンダードを握ってしまっているようです。
術後の痛みはとても激しいものでした。16歳のときの手術ではここまで痛くなかった記憶でしたが、今回は術後、数週間は激痛が取れず、モルヒネも投与されました。
術後、まだベッドから降りられないこの時期に、査読論文のパスの通知が来ました(12月の終わりでした)。急ぎ、ベッドの中で、査読論文部分を博士論文に追加し、完成させました。
1/6に博士論文の提出締め切りが迫っていたため、1/2に365日空いているOAショップに印刷を大量に頼み、ベッドの上で、家族の手を借りファイリングし、提出しました。今はメール送付による論文提出で、ペーパーレスなのかもしれませんが。
結果的に1ヶ月半、入院しましたが、激痛が治まった後は、足折り曲げ機、歩行器と杖を使ったリハビリを開始しました。主治医に、“君はリハビリのベテランだから、自分でプログラムを作って実施して良いからね”と言われ(笑)、病棟の中、外来の階段等を1日3回、5セットずつ周回するといったプログラムを決め、実施しました。
しかし、思ったほどすぐには回復しませんでした。
16の時ほど若くなかったこともあるのでしょう。また世界標準モジュールの人口関節だったため、なかなか体にフィットしなかったのかもしれません。
標準モデルがあったおかげで手術までの期間は1週間で済んだことは前述しましたが、慣れるのにも結構時間がかかりました。退院後に主治医に今回の関節は歩きにくいですねと直訴したところ、杖無しで歩けるのは50%の患者しかいないなのに、海外出張に行くような人が文句を言うなと言われました。
本当に地獄のようなリハビリをして復帰したにも関わらず、“もっとリハビリした方がよいのでは?”などという先輩もいました。人の気持ちが分からない人にコンサルタントは向いていないよ!と言おうかと思いましたが、大人気ないと思い、やめました(笑)。
現在は以前の人工関節の時のように、全国、海外と飛び回っています。
ちなみに今は仙台から帰京中です。
(続く)
今日の写真は昨日の昼食の勝つ丼むすびです。受験生ではありませんが。