デザイナーじゃない人が読むとなんとなくデザインのしっぽみたいなのがつかめそうな話
10年くらい前……場所は四谷の白木屋だ。とある若手勉強会にパネラーで呼ばれてて、その打ち上げの席でいっしょになったデザイナーが言った。
「駅の手摺に点字が貼ってあったりするじゃないですか。あのデコボコでね、たばこを消しちゃうヤツがいるんですよ」
この話を聞いたとき、自分を含め、その場にいた全員が同じ反応を示した。
「ひどいヤツがいるもんですねー」
でも、彼はそれを遮ってこう続けた。
「たしかにそうなんですけどね。僕らデザイナーはそこで終わっちゃいけない。そこには、人間にとって、たばこを消しやすいかたちがあったってことに目を向けなきゃいけないんですよ」
目から鱗だった。ひときわ大きく頷いてしまった。
「ゴミ捨て場でもないのに、ゴミが捨てられて溜まる場所の姿を知ってこそ、秀逸なゴミ箱が生まれたりするんじゃないかって。そう思いませんか」
たしかにそう思う。
「たばこを消す」という「用」が、点字の凹凸という「かたち」に出会って、新たな機能が生まれてしまうこと。
道徳的には本当にひどい話ではあるのだけれど、そこには道徳や制作者の意図を超えた「流れ」と、デザインの「芽」の様なものがあって、「ひでえ」という良心的意見を度外視したくなる、エキサイティングな何かを感じてしまった。
人間は、無意識以上、工夫未満の領域で、「なんとなく」動いてしまう瞬間がある。それはひどく生理的で、ごく自然な肉体的動作の流れの中で起こるものだろう。その中にこそ、デザインの源泉が潜んでいる。
なんて。コレっていわゆるアフォーダンスみたいな話なんだけど、まあ、当時の僕はそんな風に思わされてしまったのだった。
※2009年4月に書いたブログ 「用途」と「かたち」のはなし 加筆修正版