ころがるえんぴつ/某コピーライターの独立とかの話_10
第10話/昼間から泣く29歳男子、ほぼ無職。
久々に筆を執る。なぜに久々になったかと言えば、こっちの世界・・・・・・つまりこの文章を書いている2016年の僕が、はじめての書籍を出しててんてこ舞いだったからだ。出版イベントの打ちあわせ、Amazonのランキングチェック、出版イベント出演、Amazonのランキングチェック、本屋の平積み確認、Amazonのランキングチェック、Amazonのランキングチェックなどで気もそぞろだった。(カテゴリ1位から順位ががっつり下がるまでは)
noteでしか僕を知らない人は、ちょっと驚いたかも知れないけど、2016年の僕は、まあ、食うに困らない程度には仕事があり、業界内での知名度も・・・・・・まあ、食うに困らない程度にはある人だったりする。講演依頼も年間で10件くらいはある。
うん。どかんと自慢する程では決してないけれど、かといって、暗い部屋で体育座りしていることが許されるほどヒマではない。毎日、やることがあるし、会うべき人も沢山いる。呼んでくれる会社さんも増えた。
だから、もう、「あの頃のようなこと」は、もう繰り返さなくていいはずだ。いいはずなんだ。と、わりと高頻度で思い出す、濃密で重苦しくて愛おしくて救いがない時間の話をしておきたい。
時期はたぶん、Rockakuをつくって半年程度の頃だ。当時の僕としてはそこそこあっぷあっぷで暮らしていたものの、どうひいき目に見てもヒマだったし、仕事はあっても納品・請求までは遠い案件ばかり。必然的にお金もなく、先行きも不透明極まりない。自覚こそ薄かったけど、独立から10年近いキャリアを積んだ“こっちの僕”から見れば、けっこうな濃度の「闇」の中にどっぷり浸かっていたのだと思う。
その日の僕は、なんとなく仕事場兼自宅である麻布邸から徒歩5分ほどの距離にある六本木のTSUTAYAでDVDを借りてきていた。借りてきたラインナップ? これがねえ、別に何でもないんですよ。確か、アニメ化して間もない『蟲師』と、小林賢太郎の一人芝居『ポツネン』シリーズの『MARU』だったかな。
これを、仕事用のiMacG5(インテル入ってない)で再生して観るわけです。昼下がりにもかかわらず、全く日の差さない薄暗い仕事部屋で。
まずはアニメ『蟲師』。開始20分で号泣。
わかってますよ。あのシリーズって、基本的にはこの世のものでは無い『蟲』という存在が持つ理を通じて、この世に留まる人の悲しみとか、別れとか、そういうものを描いてるわけだけけれど、とは言え、そこまで泣かすようなストーリー構成というわけじゃないことくらいは。
でも、泣ける。何話観ても泣ける。薄暗い部屋でアニメを観ながら、鼻をすすり、涙をぬぐう約三十路のほぼ無職。これはヤバい。そして痛い。でも、そんなことがどうでもいいくらいに涙があふれてくるのだ。特に、エンドロールでは文字列を直視できない自分がいて、それもよくわからなくて、さらに泣いた。
この涙の「得体の知れなさ」は、正直手に負えないものだったけど、泣いたらスッキリしたのも事実だった。続いて『MARU』を再生する。
号泣からのスッキリに味を占めたわけでもなく、ましてや涙より笑いを期待して観はじめた『MARU』だったけど、結果は、もう、取り返しが付かないほどに泣いた。
特にあるシーンで、売れない絵描きに向けて投げかけられる台詞、「そういうの、向いてないって言うんですよ」と、「もう、おやめなさい」が心の中に「どーーーーーんっ」と響いてきて、嗚咽に近い状態にまで陥った。絵描きは応える、「向いててーーー」と。本来“笑い”の要素として書かれたであろうこの台詞が、もう、全く笑えなかった。ひたすらに泣いた。
この異常な涙の正体は、いったい何だったのだろうか。アニメのエンドロールに連なる制作スタッフたちの名前で、あるいは絵描きに向けられた台詞で、僕の涙腺を狂わせたものはいったい。
それは、「無力感」だったのだと思う。アニメや芝居という作品、あるいはある種の事業が、そこに成立し、流通していること。そのあたり前の事実とまっすぐ向き合えず、世界に対して何もできていない自分の状況と、どこにも属していない心細さが決壊してしまったのだと思う。
生来、精神的に頑丈で、鈍感を自負している僕ではあるけれど、振り返るとあのときはけっこうマズい状態だったのかも知れない。
その証拠に、数年後、もう一度『MARU』を観てみたら、あのとき、あれだけ大きく響いた「もう、おやめなさい」が、記憶や印象とは全く別のシーンではないかと思うほどに、小さく、かすかに、ささやくような声だったのだ。