ドレッドとスターバックスと
「スターバックスの店内は、全席禁煙です(テラス席を除く)。 それは、「香り」もコーヒーの大切な要素として楽しんでもらうためなのです。 また、コーヒー豆はにおいを吸着しやすく、品質が劣化しやすいので、それを防ぐためでもあります」(スターバックス店内掲示より)
何年かぶりに立ち寄った吉祥寺にスターバックスができていた。井の頭公園の入り口の目の前だ。俺はその店構えを見た瞬間、思わず吹き出してしまった。
真横に密着するかたちで老舗の焼鳥屋「伊勢屋」があり、すさまじい勢いで煙を吐き出しているのだ。タレと脂の焼けるにおいは、容赦なく猛威をふるい、他のスターバックスなら、当たり前に漂わせているあのコーヒーの香りは微塵も感じられなかった。
「ははは…ゴトウ以来だな、スタバを凌駕する存在を見たのは」
独り言をつぶやきながら、天を仰ぎ見た。
「ちゃんと生きてるのかなあ、まだ…」
「ゴトウ」の話をはじめる前に少し回り道をして、「我が家」の説明をせざるを得ないだろう。
「港区元麻布、一戸建て、六本木ヒルズまで徒歩5分」
「我が家」の概要をざっと書き出してみたが、かなりモテそうな響きだ。が、この後に延々と負のスペックが並ぶ。築年数不明、1階の日照はゼロ、床が傾き、ビー玉が軽快に転がる…人呼んで「麻布の九龍城」…中国映画に出てくる阿片窟のような家。そこにカメラマンやライターやデザイナーなど、怪しい職業の男たちが常に2〜3人が住み着いては、不気味なコミュニティを築いている。以上が「我が家」の簡単な説明だ。
そして、そこにふらりとやってきたのがゴトウだった。ゴトウは元々、同居人のひとりであるマツモトの地元の友人で、たまに遊びにはきていた。古めかしい茶色のカーディガン、靴が見えなくなるほど裾が広がったベルボトム、真冬でもゴム草履、デタラメに伸びたドレッドヘア。いつ見ても大概はそのスタイルだった。
ある日俺は、そのゴトウが、全く帰ろうとしないことに気がついた。
唐突にその「尋問」は始まった。
「よくいるよな、最近…」
「はい」
「おまえさ、仕事とか、学校とかは?」
ゴトウはうつむいて、首を振った。
「んん…じゃあさあ、質問を変えるわ」
俺は慎重に言葉を選んだ。が、すぐに面倒になり、核心に迫ることにした。
「いま、どこに住んでるんだ?」
ゴトウはまた首を振った。
「んんんん…じゃあ、お前、まるで本物の…」
そう。20代前半にして本物のアレなのだ。
「それだけは言わんといてください!」
ゴトウは一瞬声を荒げたが、すぐに肩をすぼめた。
「…その…しばらくこの家に置いてください」
ゴトウは、まるで捨てられた雑種犬のような、どこかもの悲しい目で俺を見つめていた。
「…まあ、いいけども、他の連中がなあ…」
「あ、承諾は得たッス。僕はマツモトの部屋で寝ますんで、大丈夫です」
4畳の部屋で男が2人添い寝して、何が「大丈夫」なのか、よくわからないままに、ゴトウは我が家の居候となった。
ゴトウは、目を見張る順応性を見せた。3年暮らしているマツモトさえ覚え切っていないゴミの日を完全にマスターすることで俺の信頼を勝ち取り、きんぴらゴボウなどを甲斐甲斐しく作っては、食卓を彩った。
その晩の食卓には、ひじきの煮物があったのをよく覚えている。
「前に、屋久島で勝手に小屋建てて、半年ほど暮らしてまして。で、自分、山好きなんで、しょっちゅう、山登りしてたんですわ。その日も何となく登って、登ってから、仕事の約束を思い出して、慌てて下っていったら、途中で出くわした登山客が大声を上げて逃げていきよるんですよ。ワケもわからんし、とにかく急いでたんで、そのまま走って行ったら、その人転んでもうて、助け起こして聞いたら、俺を、『もののけ姫』に出てくるタタリガミだと、本気で思ってたらしくて…」
「いやいや、それはねえだろー」
「いやいやいや、ホントですって」
ドレッドヘアを揺さぶるゴトウを見ながら、俺はゲラゲラ笑った。ひじきは少し水を吸いすぎていて、ゴトウの髪そっくりに見えた。
ひとしきり笑った後、急にゴトウは神妙な面持ちになった。
「明日から建設現場で働きます。半年で60万くらい貯めて、南米に行きます。だから、それまでは厄介になります」
「南米で何するんだ?」
「いってからゆっくり決めますわ。これまでもそうしてきたし」
さらっと言ってのけるゴトウが、なんだかまぶしかった。
「そうか。じゃあ、旅に備えて、地球の歩き方でも買いに行くか?ヒルズのツタヤに。スタバでコーヒーおごってやるよ」
「歩き方はいらないっすけど、コーヒーはいただきます」
これが悪夢の引き金だった。
「ゴトウよ…お前、風呂はいってないだろう」
コーヒーが香る店内でようやく違和感に気がついたのである。
「いやあ、入りましたよ。5日前に3回も入りダメしました」
「入浴に“タメ”なんてねえよ! このニオイの元は間違いなくお前だ!」
スターバックスにしてみれば明らかに「異物混入」である。
不快な視線もちらほら感じる。ゴトウの周りの空気が歪んで見えた。
「圧勝だな」
ゴトウと距離を置き、「他人のフリ」に徹しながら、それでもなぜか、痛快な気分になった。
その後、ゴトウは見事に60万円を貯め、我が家を出て行った。
一度だけ、手紙のようなものが届いた。殴り書きで、宛先だけが書かれた怪しい封書には、全裸でリュックを背負って、雪山の山頂でポーズを決めているゴトウの写真が2枚だけ入っていた。そこがどこなのか?誰がこのバカ写真を撮影したのか?南米に行ったんじゃなかったのか?…多くの謎を残したままだったが、まあ、深く考えるだけ無駄だろう。
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