ころがるえんぴつ/某コピーライターの独立とかの話_08
第8話/宙におわす“何か”に向かって陳謝する。
さてさて、第6話でK氏に「仕事を手伝え」と言わせてしまい、全面的に謝罪した僕だったけれど、もう1人……いや、なんだろう、あれは人ではないか。もう1つ? もう1柱? いくら考えても、適切な単位は見つからないけれど、とにかく、K氏以外にも謝罪した相手がいた。今回はその「謝罪」についての話だ。
あれは確か、名刺も刷り上がり、独立を細々と告知しはじめ、あちこちで挨拶などをしていた頃だ。その夜は、以前から交流があった(今はなき)コピーライター系のSNSで知り合った人たちと、麻布邸で飲んでいた。と言っても、僕は神聖なる真性の下戸なので、基本、最後までシラフだ。
そのときのメンバーは、ライター兼コピーライター歴約20年を重ねる大先輩Mさん(2児の母)と、悩める30代のO川さん、あとまあ、大学生とか、広告代理店員とかが雑多に数人いた気がする。
とにかくその頃の僕と言えば、自分を傷つけずに済む上手い言い方が思い浮かばないけど、うーん……アレだ、そう。「情緒不安定」だった。
当時はとてもじゃないけど自分を客観的に見られるような度量も度胸も余裕もなかったわけだが、9年経った今、冷静に振り返れば、どうひいき目に見ても「ギリギリ診断書は出ないけど、だいぶアレだよね!」というレベルのメンタルコンディションだったように思う。
油断すると、ようやくたき付けたなけなしのモチベーションが萎えて、簡単に枯れ果ててしまいそうだったから、とにかく人に会って、(なし崩しに)自分がはじめることに決めたRockakuのことを喋りまくった。むりやりテンションを上げていた。半ば病的だった。マイナス方向に必死だった。
……待てよ。今でこそイベントやセミナーやに呼ばれて、喋らせていただける立場にはなれたけど、この病気はあまり治癒していないんじゃないか……
まあ、いずれにせよ、この病気に付き合ってくださる仲間がいたことが、僕にとっての大きな救いだったことは間違いないので、深い感謝と、あと、お詫びの意をここに表したいと思う。
で、このはた迷惑な喋り倒し期間の中で、少しずつ分かりはじめていたことがあった。それは、「喋ることでかたちができあがっていくものがある」ということだ。僕は自分の才能や感性について、取り立てて非凡さがあるとはとうてい思っていない人間だけれど、それでも、まあ、特徴らしい特徴があるとするならば、「言葉“で”つくる人間」なんだろうなと、40歳を目前に控えて思う。
下手にコピーライターという商売をしているから、「言葉“を”つくる」と思われがちだけれど、それはちょっと違う。「言葉“で”つくる人間」だ。“を”と“で”の差はとてつもなく大きい。僕は常々思うのだ。“言葉”はある程度完成されて流通している“道具”であって、それ自体を創造することなんてそうそうない。 たまに造語をすることはあったりするけれども、それが全国区に拡がって、時代を超えて使われて行くかどうかと言えば……もちろんそうありたいけれど、結果は今わかるものではない。
話が横道にそれたが、つまるところ、「言葉“で”つくる人間」というのは、あらゆる思考、思索、記録、構築、設計、遊戯を、言語ベースで行うちょっとアレな人のことだ。「本当に美味しいものには、言葉はいらない」とか、「美しい風景に添えるべき言葉ない」とか、「沈黙は金」とか、世間ではときとして言葉を余計なものとして捉える向きがあるし、僕自身、無口でクールな人間に憧れたりするけれども、僕はそれがどんなに無粋なことであろうとも、琴線に触れたできごとや光景を意地でも言葉にしようとする。言葉にしないと気が済まない。
誰に課せられた義務でもなく、怠けたところで誰がとがめるわけでもない。それでも、言葉にできないのは怠慢だとさえ思ってしまう。そして、それを誰かに話しながら、「伝わったかどうか?」を試し続ける。それこそ、呼吸をするように自然に、かつ切実に、だ。たぶん、スケッチブックを常日頃持ち歩く絵描きさんや、カメラを持ち歩く写真家と感覚は近いかも知れない。けど、道具など持ってないし、下手したら独り言を言ってるだけなので、全く以て気持ち悪いし、タチも悪い。正直、仕事以外で役立っている気はあんまりしない。
「ころがるえんぴつ」で言えば、第1話あたりの無駄に丁寧で、粘着質な心情の描写は、たぶんこの病状の一端なのだと思う。37歳の夏、バイク事故で入院した際に、リハビリを担当してくれた療法士さんがちょっと気持ち悪そうな感じで、「こんなに的確に痛みを表現してくる患者さんは初めてです」と言ってきたけれど、まあ、それも病状のひとつだ。
つまり、森田君にとって、言葉は道具あり、素材であり、OSであり、アプリケーションでもあったりするらしい。かなり痛々しい話だし、もはや、元々どういう話をしていたのかも忘れてしまった。
そうだ。独立したこと、Rockakuと言う屋号をつけたことなどを人に喋りまくっていた時期に気づいた「喋ることでかたちができあがっていくものがある」という視点だ。
つまり、僕は、誰かに理解してもらいたい(そしてあわよくば仕事が欲しい)一心で、その人の視点、知識、職域などにあわせて、できるだけわかりやすくRockakuについて説明をした。しまくった。
あるときはデザイン事務所の社長に向けて現場レベルの実務的な側面を、あるときは中小企業経営者に向けてビジネスライクに、あるときは広告代理店マンに向けて業界情勢を絡めたかたちで……それはもう、膨大なバリエーションで、Rockakuについて伝えようとした。伝えないと明日はない。伝わらないと消えるしかない。そんな選択の余地の狭さの中で得た一縷の望み。それは、選択の余地がないから、前進することにのみ力を注げたことなのかも知れない。
なんて、今だからそれらしく分析的に言語化できるけれど、リアルタイムには、もう、有り体に地獄だったと思う。とは言え、このプロセスの中で、繰り返し言語化され、多角的な視点で微調整を繰り返し、プレゼンテーションを重ねることで、Rockakuという概念は無形のものから、着実に輪郭や手触り、色彩を獲得していったのだ。
で、その晩の飲み会だ。ようやく本筋に戻って来たぜ。ひとしきり飲み明かし、そろそろいい時間だから帰ろうか。と、言うタイミングで悩める30代のO川さんがトイレに立った。既に若手たちは帰ってしまった。部屋にはライター兼コピーライター歴約20年を重ねる大先輩Mさん(2児の母)と僕だけだった。基本、柔和なMさんが、急に鋭い目をして僕を見た。
「もりてっちゃん、聞きなさい」
僕はビビリながらうなずいた。
「私のダンナはね、元々、才能あふれる脚本家で、文章も私なんかかなわないくらい書けるっていう人だったの。でもね、ある日、ふっと仕事が来なくなったわ。きっかけなんてわからないけど。でね、ダンナはそのとき何もしなかった。何もしなかったら、そのまま状況が変わらなくて、二度と仕事がくることはなかったの。それ以来、十数年、私が書いて稼いで、ダンナが育児をしているのよ。ウチは」
Mさんはここまで言うと、もう一段階、鋭さを増した目で僕を見やった。ちょっと逃げたくなった。でも、無言で「よく聞けや小僧」と言っているようだった。
「才能も人脈も経験も関係ない次元で、ただ、“書く人生”と、“書かない人生”があるのよ。それはもう、神様が身勝手に、適当に決めた割り当てみたいなモノで、望んでどうこうなるものじゃない。私は“書く人生”だった。ダンナは“書かない人生”だった。もりてっちゃんは……もう、どっちだかわかるわよね?」
Mさんがここまで言ったところで、トイレの水を流す音が聞こえ、O川さんが千鳥足で出てきた。
「お待たせしましたー。んん?どしたの?」
僕とMさんの間にある妙な空気を感じ取ったのか、O川さんは少し、表情をこわばらせながらもおどけて見せた。
「んー?なんでもないわよ。さ、かえるわよーん。また飲みましょうねー」
Mさんはいつもの柔和きわまりないMさんに戻り、O川さんを連れて麻布邸を出ていった。
来客が去り、静まりかえった麻布邸で、僕は固まっていた。金縛りだ。何か答えを見つけないと、一歩も歩けない。そんな状態だった。僕は心の中で、いや、もしかしたら声に出していたかも知れないけれど、宙に向かって話しかけていた。
「僕は通算で3回くらい、書く仕事から逃げてみました。でも、そのたびに、自分の意思とは関係なく、それこそ、人生ゲームや双六のように、よくわからない力で、もとのレールに戻されてきたように思います。それは、Mさんのいう“書く人生”というヤツだったんすかね?」
当然ながら、この問いに答える声はない。でも、ここまで言葉をたぐったことで、さっきまで床に縫い付けられていたように動けなかった足に、軽さが戻って来た。「ああ。どうやらそうなのかも知れない」と、諦めるように、身もだえるように、僕は一歩だけ前に進んで、腰を折り、深々と頭を下げた。つまりは謝罪である。
「今まで、さんざん逃げ回ってきて本当にすみませんでした。もう、ちゃんとやります。だから許してください。だから、仕事を続けさせてください。“書く人生”を続けさせてください」
割と大きな声が出ていることに自分でも驚いた。僕は、何に向かって謝罪したのだろうか。それは、未だにわからないし、でも、わかりきっているようにも思う。ただ、少なくとも、このときの謝罪で、“宙にいた何か”と交わした“契約”は、10年近く経った今でも、未だに履行中である。とだけ、付け加えておきたい。
つづく
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