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原石の光を奪う大人達

コドモ達は国の宝。
しかし、どんな宝の原石でも、磨くどころか…心まで削り取られ過ぎては、自ら放つ光も輝きも失う。

スポーツ強豪校でのパワハラが、後を絶たない。
「体育会系なんて、そんなものだろう」という割り切り感も、体だけではなく、心に傷を負う「原石」を送り込む現状打破にはならず残念な話だ。

このコラムの結論は、これは学校だけの問題ではなく、体育会系独特の問題でもなく、システム経済を中心とした社会全体の問題であるということだ。


1.宝石が石ころに…

学生スポーツの目的は、子供達の主体性と自律が育まれる人間形成の土壌づくりとなること…どの強豪校も、そうした「大義名分」は存在する。

いつの間にか組織ぐるみで目的は形骸化し、あくまでも「目標」に過ぎないはずの全国大会出場や全国制覇というものが、いつのまにか関係者全員の目的になってしまう実態では、原石の輝きが失われていくことは永遠になくならない。

「コドモ達を成長させる」という都合のいい言い訳を使い、進路優位性の実績獲得に向けた学校ブランド力向上や、指導者の名声を高めることが本質的な目的になってしまう…そうした例も、枚挙にいとまがない。

実体として教育の目的が歪んでいる現場では、大人都合の政治的なエゴが、組織的構造として「抑圧的空気」を産み出し、子供達を「恐怖政治」の支配下に置いている。

もちろん、当事者達はそれを徹底して全面否定する。
高圧的かつ老獪に、そのような実態は表に出ない空気と環境を、自分達で造っていることすら、認めようとはしない。

何かしらの事件や事故となって表沙汰となると、彼らは「これも教育的指導の一環でした」という決まり文句を持っている。

宝となるはずの原石が、じっくりと単なる「石ころ」とされてしまうリスクが高いだけではなく、抑圧的空気に迎合しない子供は、すぐに「石ころ」扱いをされているのが実態だ。

「命令に背けば自分は石ころになってしまう」と焦ってしまう子は、常軌を逸した行動を余儀なくされることも出てくる。
心の輝きを奪われた学生が「書類送検」されるところまで追い込まれ、如実に事件として表面化された日大アメフト事件は、比較的記憶に新しい。

しかし、事件となり表沙汰となっても、本質的な問題点は、今もなおすり替えられたままで、根本的解決に向けた社会の動きになるどころか、「風化」されつつあるのも事実。


2.教育的指導という蓑

徐々に風化されつつある、日本大学アメフト部の悪質タックル事件は、日本大学の学生選手が意図的に相手選手にケガを負わせるというビデオ記録があったからこそ、表面化していった。

一昔前にはなかったスマホやカメラの発達により、いろんな角度から動画として証拠が残されるようになったからこそ、学校や指導者も隠蔽できなくなってきたということがあるだろう。
(秀岳館高校サッカー部の指導者暴力も、動画によって表沙汰となった。)

日大アメフト部においては…フィールドに送り込まれる直前まで、コーチに「やれるんだろうな?やれないとお前はもう終わりだ」という強迫でメンタルを追い込まれ、常軌を逸した行動に出ざるを得なかった若者がいた。

それまでの育成プロセスにおいて、「彼は優しすぎるから、心を鍛えるつもりだった」などと指導背景を説明しているが、完全に逃げ場のないところに追い込んだ虐めの構造と何も変わらないことに、指導者側は気づかない。

いずれにしても、大怪我をしてしまう選手、故意に「潰してこい」と命令を鵜呑みにせざるを得ないほど精神状態を追い込まれる選手が生まれてしまうという悲しい事件にならないと、この歪んだ構造が社会で露わにされないことに、とても大きな問題がある。

そうした中、なかなか表沙汰にならない点として…次の背景もある。


3.親の関与の限界

この「抑圧的空気」…これに従わない保護者もまた、チーム内ではモンスターペアレンツというレッテルを貼られ、保護者が我が子を救い出すことすらできない「空気」になることもある。

記者会見の公の場でも、当初の日本大学広報担当は、自己都合を主張する学校体質だったことを大きく表していた。

これは、「どこかおかしい」と気づいて、一個人が学校側と掛け合ったところで、「親子共に弱い家族だ」と弾き飛ばされて終わりということを示している。

この大学に関わらず、強豪校と言われる高校や大学では、育成方針に違和感が親に生まれて、チームメイトの他の親に相談したところで、「全国大会前に余計なことをするな…出場停止となったらどうする!」と…もはや、いじめられている側にも問題があるという追いやられ方まであったりする。

そして、指導者自身も「奴らは、すぐにパワハラだと騒ぎ立てるんだ」と、まるで自分が被害者かのごとく、慕ってくる親子を味方につける。

洗脳というものは、とてつもなく恐ろしい。
心理的に自分を美徳化した指導者に対し、タブー視されたところに地雷を踏もうものなら…「この学校にわが子を入れたのなら、空気を読めよ!」的な圧力がかかってくるのが実態だ。

日大アメフト事件では、怪我人が出た試合直後、記者とのインタビュー録音で、「あいつはこれからもいじめる」と当時の監督の言葉が、ハッキリ残っている。(テープ音源報道済み)

ボクは、指導者に「これ以上きつく言うたら、もうイジメになってしまうな」とハッキリと言われたスポーツ強豪校の選手を知っている。

言われた子供は「もうイジメという認識をこの大人は充分解っている」と感じ取ってはいるのだが…それでも、他のチームメイトに迷惑をかけられないので、我慢するしかない。
また、ターゲットになっていない子供も、多少の優越感もあれば、「この人に逆らうと、明日は我が身だ」という恐怖感も同時に植え付けられている。

指導者から、体罰などなくとも、無視や人格否定の暴言は、立派な暴力なのだが、それでも「あいつは解っていない」と突き放す…その結果、癒えることのない心の傷を負うことを「パワハラ」ということすら、指導当事者は、気づいていない。

指導者側は、これを「教育的指導」だと断言し、支持者が増えるように周りも洗脳していき…当事者側は、これを「精神的暴力」に耐え切れず、心が壊れていく。
二度と治らない体の傷も起こり得れば、二度と立ち直れない心の傷だって負いかねず、子供本人にとっては「生き地獄」である。

もし、学校側が指導者に対して「何年以内に全国大会出場」というノルマを課し、結果が出なければ継続雇用しないという条件設定があるならば、それはもはや教育現場とは言えない。

つまり、チームの姿勢は、指導者ではなく、学校長が入学前に説明すべきであり、指導者との教育方針をどう確認しているのかを、ディスクローズする必要性すら感じる。

さて、学生スポーツにおける事件や事故が起きる都度、いつも二つの懸念が浮かび上がる。


4.一つ目の懸念

事件や事故が生じて、こうしたことが公に知られた時の、世間の反応だ。

「体育会系はそういうところと判っているのに、わが子を送り込む親のほうがどうかしている」と揶揄するだけの大人達…それは「うちの子は体育会系とは関係ないから」と無関心を装う大人が多過ぎることと併せて、大きな社会問題と言っていい。

体育会系ではない学生でも、進路がどれだけ有名大手企業とはいえ、「人に長年統治され続ける会社」に入り、自分らしさを押し殺して生きていく道が待っている環境…。
気づけば、我が子も体育会系の歪んだ統治社会と大して変わらない職場環境に送り込んでしまうリスクが高い社会構造となっていることに、早く気づいたほうが良い。

つまり、部活動が盛んではなく、進学ばかりを視野に入れて勉強に集中できる環境の学校を選んでおけばイイかというと、それは逆に人育ての環境としては、あまりにもお粗末な発想でもある。

自ら考え行動する「人としての自律」を育む上では、音楽や美術などの文化系のクラブだろうが、体育会系だろうが…机上の学び以外にも学校行事も含めた「課外活動」は、青少年の人格形成には、やはり重要なこと。

明確に答えがないものを自分達の主体性を活かして探求してみたり、違う価値観の人達とのコミュニケーションをとる経験で、課外活動は重要なのだ。

体育会系の話に戻そう。

子供達は、幼少時期に、プロの試合や学生の全国大会などさまざまな競技で、キラキラしている選手に憧れを持ち、大きな夢を抱く。

そして、最初は誰もが下手であっても、本気で楽しんで、一切の楽をせずに主体的に努力している子供は、やはりそのスポーツの高いところへと辿り着きたくなる…これは、とても自然な流れだ。

そうした中で、実績あるチームや有名な指導者から、原石を見出されたかのようなスカウトがあると、意を決して飛び込むことは、不思議ではない。
親もまた、そのスポーツを通じて、心身ともに切磋琢磨して、人間形成の礎となるならと、勇気を奮って送り出したりする。

もちろん、この学校・このご指導に預けて良い者かどうかは、いろんな角度からさまざまな情報を得る努力もする。

しかし、全ての強豪校とは言わないが、絶対的権力による恐怖政治となっている環境であるかどうかは、入ってみないとわからないのも少なくない。
入る前から「闇」があったとしても、それは絶対権力者により、全て封じ込まれていることも少なくなく、実態が外には漏れて来にくいからだ。

(ここにも、「入社してみないと判らない会社の運営実態」という話と、大して変わらず、一つの学校の姿勢の問題として片づけられないことだと言える点がある。)

また、学生競合チームで厄介なのが、指導者に実績があるうちは、悪く言う人も少なかったり…逆に、悪く言う人は「おかしな人だ」と何かしらの形で必ず排除されていく。

そして「闇」が存在していると…入学後は、進路のことも含め、自分達が干されないようにするために、従順にならざるを得ない状況になっていく。
スポーツ推薦で入学した以上、退部は「退学」を意味するからだ。

もちろん、強豪校でも、恐怖政治体制ではなく子供達の主体性を尊重して、人間形成の土壌づくりとして、スポーツを上手く融合させているところはたくさんあると信じている。
実際に、そうした理想の教育環境のところはあるとはいえ、いつまでも後を絶たない「部活の闇」については、放置しておくわけにはいかないんだ。

だからこそ、抑圧的空気が生まれない構造を築くためにはどうするのか…

これは一つの学校の運営姿勢が問われているのではなく、過当な競争原理を生むシステム経済や、比較優位性ばかりを気にする家庭環境など、社会全体(マクロ的な視点)で、一人ひとりの大人が考えなければならない事だ。

マクロ的な視点は、締めくくりの6章で語るとして、まずはミクロ的な視点として…

  • あくまでもスポーツは本気になって「楽しむ」ものであり、それを通じて子供の人間形成が育まれる手段に過ぎないこと

  • 全国制覇はあくまでも「目標」であり、コドモ達が、スポーツ引退後もこの国の宝となる、クリエイティブな人間に育て上げることが「目的」であること

この二つが、子供本人・学校と指導者・保護者が、三位一体で理解共感していることが必須であり、マメにその確認をし合う必要がある。

三位一体とは、相互に対等である必要性があり、そこが絶対権力が生まれにくい構造をつくる一歩目となる。

つまり、目的が絶対にブレない「強い信念」のオトナ達で支えて行く環境設定が不可欠となってくる…それしかないのだ。
そういうあたりまえの空気を、あらためてつくっていくしかない。


5.二つ目の懸念

もう一つの懸念は…日大アメフト事件では、「大学の呆れた体質」ばかりにフォーカスされ過ぎたことだ。

実は、日本全国の小学校から大学までの学生スポーツでは、自分の指導姿勢において、絶対的権力による恐怖政治を敷いている指導者はたくさんいる…そしてその可能性があることを、社会全体で考えるキッカケとなったはずが、「日大が悪かった」で世論は片付けてしまった感が強い。

「うちはそんな相手チームをケガさせるようなことまではない」と高を括っている指導者や学校関係者も、潜在的にはたくさんいる。

他チームにケガをさせるところまではせずとも、選手の心が壊れる追い込みは、未だにさまざまなところで耳にする。

つまりそれは、相手チームをケガさせることはなくとも、本人自体が、その競技が大嫌いになったり、塞ぎこむようになったり、人間不信になったり、将来の夢を断たれたり…最後は自虐的になり、追い詰められ過ぎて命を絶つことが脳裏に過るケースだってある。

それでも、全国レベルで実績を上げれば、指導者も学校内部での評価も上がり、権力も持ち始めるから、余計に質(たち)が悪い。
華やかなチーム実績の陰で、心を塞ぐようになっている子供がいることに、焦点があてられることは、まずない。

それが、大きく表に出ないようにするために、結局「空気」で支配されていおり、どこか「天皇化」「女帝化」されている世界観で、そこに異を唱えるチーム関係者は、まるで「魔女狩り」のような扱いになるのが実態だ。

この学生スポーツ界の闇は、日本大学だけに限らず、全国の中高大で、自戒の念として、本気で向き合わないと、根本的な解決は程遠い。

選手本人・学校と指導者・保護者が、三位一体となり、スポーツの目的は一体ナニかを、本質的なところで同じ方向を向いて理解共感していくことを、各地で丁寧に行われないといけないが…そんな本質的な対話の機会の重要性など、ほとんどフォーカスされることがない。

競技専門誌では、全国大会常連のところには高評価を示すが、不祥事があると一般マスコミ紙は、トコトン学校や教師だけを槍玉にあげて潰していく。
それの繰り返しでは、根本的なものは、何ら構造の解決にはなっていない。

学校の売名行為や、指導者の名声に、子供達が犠牲になるのを、一人ひとりのオトナと社会が、どう向き合っていくのか…それこそが日大アメフト事件の渦中にあった選手たちに報いてあげることであり、それが我々大人の責任なんじゃないのかなと…本気で想う。

ハッキリ言おう。

「教育的指導で心身を鍛えている」と言っても、明らかに「目的」を間違えて、絶対的権力を盾に抑圧的空気をつくっているオトナ達は…めちゃくちゃ「弱い」人間だ。
残念だが、当の本人は、自らは絶対にこのことに気づいていない。

結局のところ…本来の自分を押し殺して組織に迎合して給料を得る体質が主流になったり、有名企業や有名大学への進路が目的としてしまっている家庭環境を築いてしまっている我々大人全員が問われていることだ。

知らず知らずのうちに、経済社会でも「心理的安全性の担保が無い代償として、心を働かせることを捨ててお金を貰う」という、主体性と自分だからこその思考を放棄した大人達を多く輩出してしまっている。


6.結論:大人の責任

コドモ達の熱い想いや描く夢は、この国の財産だ。
宝石となる原石が、石ころのように、使い捨てられるのは、もうコリゴリ!

個人的には、娘が本気でバスケに取り組んできた中、彼女の努力や想いと同時に、いろいろなご指導環境を見てきたことで、間違いないと確信を得ていることがある。

それは…すでに少し触れてきているが、学生スポーツでの人間形成と、社会での経済活動には、大きな相関性があるということだ。

高学歴・有名企業就職が、教育の目的になってはいけない。
どれだけ、高い偏差値で競争意識が芽生えたところで、早く的確に答えだけを導く情報処理能力は優れて行っても、辿り着く先は企業側に都合のいい労働搾取の要員になって、疲弊した人生になっては意味がない。

一方、これまで人口増加が前提での経済成長だったものが、この国の誰も経験したことがない人口減による経済市場縮小という時代に突入している。
つまりは、次世代に評価される価値づくりにおいては、これまでの常識や固定観念が一切通用しない時代となっている。

だからこそ!…自分の足で立ち、自分で考え、自分で道を切り拓くことができる主体的かつ自律の人間形成が不可欠の時代なのは明白なんだ。

そのためには、本気で楽しく挑み続けること、そして挑んだ結果の成功も失敗も、すべて次への糧にできる人間性を育むことに他ならない。

勤め先企業の求めるノルマ達成に向けた企業にとって都合の良い従順な歯車を育てたいわけではない。
彼らは「未来のあたりまえ」を創り出す貴重なこの国の資産なのだから、オトナ都合のエゴに付き合わせている暇などは無いのである。

「未来のあたりまえ」とは、今まで見たことも聞いたこともない得体の知れないものが、素晴らしい価値になっていくということだから、誰もが解かるようなやるべき課題に答えを自主的に導くチカラだけでなく、誰も見た事がないものであっても、嘘のない自分で、主体的に、果敢に、ステキな問いを立てるチカラが求められる。

その問いを立てるチカラと、意欲的に実践に挑む姿勢は、「優劣」をつける必要がないため、経済活動でもスポーツの世界でも、「弱肉強食」という概念を取り入れることはナンセンスな話だ。

それなのに、学生スポーツでも、企業活動でも「勝ち組」を目指せと、気持ち悪いほど「弱肉強食があたりまえ」という空気が漂う。

今…この国の一人ひとりのオトナの姿勢が問われている。
不祥事が明るみとなった一つの学校の姿勢よりも…この国の宝たちは、我々オトナ一人ひとりの背中を、必ず見ている。
そろそろ目覚めなければならないのは、固定観念のカタマリとなってしまっている我々オトナ達なんだ。

部活動、文化活動、文化祭活動などなどの課外活動は、自ら率先してチャレンジして、答えのないものを自分達で考え抜いて、実践と検証を繰り返す最高の機会…そうした自律が芽生える最高の機会を、オトナのエゴで染めてはいけない。

未来のあたりまえは、次世代の子供達が、我々世代には思いもつかないことを思い切って築いてもらいたい。
そのためにボクら世代から、経済環境、家庭環境、教育環境…全ての生活環境において、今の社会環境の固定観念を払拭することに挑む必要がある。


<参考コラム>

弱肉強食という言葉が、経済活動でも、スポーツの世界でもいかに恐ろしいことを生んでいるかをしたためたコラム


経済社会でも「統治」が生まれてしまう理由として「粗利益の意味」を組織のリーダーも働き手も履き違えていることについてしたためたコラム

Backstage,Inc.
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躍心JAPAN団長
河合 義徳

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