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「遊び」は、人に与えられるものではない。
「遊び」こそ、自ら切り拓いていくものだ。
(ここで言う「遊び」とは、もちろん「学び」も含まれる。)

周りの人が、いろんな「遊び」の機会や道具を与えることとも、決して悪いことではない。
何か、夢中になれるものに出逢えることもあるからだ。

しかし、それは一つのキッカケに過ぎず、自分の「遊び」がいつまでも他力本願では、「遊び方」まで手取り足取り教えてくれる人を探そうとするし、そういう人に依存してしまうようになる。

一方で、自ら本気で探求したくなる「遊び」は、自分で見出したり、創り出すことが習慣となってくると、いずれその姿勢そのものが、心豊かな自分オリジナルの財産になる。

人に宛がわれるものには「満足」を求めてしまうが、自ら見出したものには「納得」するまで掘り下げていくようにもなるからだ。

他人に「そんなことをやって何の意味があるのか?」と怪訝な顔をされたとしても、まずは自分でやってみたい、納得するまでやってみたいとなれば、ぜひ果敢に臨んでもらうことだ。
そして、「何の意味があるのか」などは、やった後から自分で見出すようにもなるから、放っておいてあげたほうが良いよね。

生まれた時から誰でも元々は持ち合わせていたはずの「主体性」「好奇心」「多様性」に余計な蓋をしないというのは、そういうことなんじゃないかな。


自由を研究してこなかった大人達

経済の中心に、主体的に自分を活かす生活者が存在するわけではなく、常に利益最適化を追求する資本家が中心となっている社会では、各企業のマーケティング戦略やブランド戦略が、消費者の暮らしを席巻する。

それにより、匿名性が高く今一つ個性が見えない「アノニマス」な労働者と消費者を産み出しやすい社会構造の犠牲として、今は「主体性」を見失った大人が多過ぎる。

自分は主体的に生きているはずだと自負していても、「自分らしさをどう活かして働き、どう納得のいく生き方をしていますか?」と問われた際、自分でも今一つ明確に説明できないなら、やはり「主体性」は見失っている。

そして、そういう大人達がまた、子供達の「主体性」や「好奇心」の芽生えや可能性を摘んでしまっていることも出てくる。

いずれにしても…

主体的な「遊び」でなければ、「惰性」にしかならない。
主体的な「学び」でなければ、「知性」は生まれにくい。

もちろん、主体的な歩みを続ける人にも、「疲れ」というものはあるが、自分ならではの「遊び」「学び」「働き」を見出した主体的な生き方になった人は、「疲れ」を癒す方法に一つの傾向を感じる。

ひと呼吸置いて、「素」の自分になれる「場」に身を置くことで、自然体で自分と向き合ってみたくなるんだよね。
そういう「場」は、ボクの場合は、心が洗われるような青空が望める空港だったり、高原だったりするわけだが、等身大の自分で自然と原点回帰できる「場」は、人それぞれだろう。

そういう「場」を設ける時は、徹底的にいろんなことをサボったりもする。
サボる時はも惰性でサボらず、本気でサボる。
もはや、そのサボる瞬間も、感性が研ぎ澄まされていったりもする。

でも、そういう人は、主体性を見失った大人のように彷徨っている自分を慰めて欲しいと飲みに誘ったり、この先自分はどうすればいいのかアドバイスを求めたり、自己啓発セミナーのジプシーになるということはない。
主体的に歩む人は、自ら見出した「遊び」「学び」「働き」の全てを、社会実装化に常に挑んでいるからだ。

また、「遊び」「学び」「働き」の全てにおいて、ボーダーラインを敷くこともなく、「遊び」の中から「学び」が生まれ、その中からまた自分らしさを活かした「働き」とは何かに向き合うようにもなっている。


小学生こそ「自由」を研究する

まず、徹底的に自分に合う「遊び」を、自分で創ってみようか。
小学生が過ごす夏の期間なんて、絶好のチャンスじゃないか。
 
長期休暇の課題として、ボクが小学生達に「自由研究」をさせるなら、毎年「昨年よりも自分が納得できる自分ならではの遊びとは」というのを体験レポートしてもらうな…。

「夏休み」より「夏遊び」という表現に変えてしまえと思う者としては…長期間、自由に過ごせることを活用して、「自由」を研究させたい。

<このコラムは、昨日アップした以下のコラムの続編>

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

#キレイゴト上等
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#サッと読める大男のエッセイ

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