粗利益の意味を間違えると心は働かない
「粗利益(あらりえき)」は何を意味しているのかということを、多くの人が間違えている。
確かに計算上では、「粗利益=売上高ー売上原価」で間違いないが、そんな頭で考えることよりも、心でどう捉えると良いのかということは、不思議と小中高生も、専門学校や大学でも学んでいないらしい。
組織の経営者、管理職、リーダーだけではなく、粗利益を目標としてノルマを課せられている働き手…その双方共に「粗利益」は何を意味するのかを履き違えていると、「心」が働かなくなる。
粗利益の意味は、最終章で語るとして、心が働いていないと、組織運営側と働き手には、どんな事象が生まれやすいのか…。
まず、組織側は、業績が芳しくない時、社内の管理体制のテコ入ればかりに目を向ける会社や上司が案外多い。
ワンマン経営や、心理的安全性など感じない同調圧力を虐げる上司ほど、「管理」という名を借りた「統治」をしたがる傾向が強い。
一方、「給料を貰えるなら、自分らしさや心を働かせることなど封印する」と割り切ってそうした組織で働く人も多い。
そうした「心」を感じない企業やお店が提供する商品やサービスは、結果的には、その先にいる顧客の安全と信頼を損ねる「社会悪になりかねない」というのも過言ではない。
その原因の根幹には「粗利益」の意味を理解していないからではないかという仮説が立つ。
人を「統治」してしまう悪循環
管理能力を上げることより大切なこと
まず、クオリティを上げるべきところは、「組織統制力」などではない。
クオリティを上げ続けるべきところは、まず自社の「商品力」…お客様に価値を認めてもらえるプロダクト力を高めることだ。
この場合の商品力とは…商品開発力や改善力や品質向上のみならず、営業アプローチのクオリティ改善なども含まれる。
つまりは、「仮説・実践・検証」の「検証」の部分の比重にも目を向ける必要がある。
提供する商品やサービスの品質向上のみならず、お客様との対話力が上がると、それに連動して組織運営のクオリティも必ず上がる。
これが不思議なくらい、そのクオリティも上がる。
なぜなら、商いの本質は、『相手を想う姿勢』…そのものだからだ。
顧客・仕入先・協力先・社員…いわゆる利害関係者と接するどの場面でも、『相手を想う気持ち』が強ければ、運営クオリティは自然と高まる。
さらに掘り下げで言うなら…商品クオリティが高まるのは、自分達が価値づくりに挑み続けることにお付き合い頂ける全ての利害関係者への感謝の気持ち…その強さの表れ以外の何ものでもない。
「管理」とは、「信頼」であり…「信頼」とは、人を信じる「勇気」と、「未来への期待値」そのものだ。
でも…このあたりまえのことが、不思議と難しい。
逆を言えば、このあたりまえのことが、今は価値になる時代でもある。
だからこそ…一つひとつの事象を相手を想って丁寧に向き合う。
それ以外の方法は、ボクらはまだ見つけられていない。
品質管理とは「心」を整えること
誰のために品質を上げるのか…一人ひとりが同じところを見ているのなら、管理体制(マネジメント)に目くじらを立てる必要はないんだよね。
『相手を想う気持ち』や、感謝の気持ちが強い組織は、自然と有機的な品質管理体制が敷かれていく。
一方で、自己肯定感が低く、自分を信用できない(つまりは自信がない)人ほど、仲間や社員への懐疑心の塊となり、人を「統治」してしまう。
「統治」は、規制、監視、指導、価値観の押し付け、叱責、命令の毎日となり、職場での心理的安全性の担保は失われていく。
そんな環境で、誰に挑もうとする意欲など出てくるんだって話だ。
そんな構造で、誰が自分の働きに幸せを感じるんだって話だ。
社員が幸せを感じていない職場から産み出される商品クオリティは、結果としてその先のお客様への安心と信頼は、いつか必ず損なわれる。
「心」を整えることもせず、カタチだけの品質管理や営業アプローチなら、いずれ顧客にも愛想を尽かされる。
自分を他人と比べてしまう悪循環
人へのアピールより自分のアプローチ
働き手のマインドをシフトチェンジする事も、とても大切な時代になった。
良い人である必要は無い。
人より優れていることをアピールする必要もない。
意味のある人になれば良い。
自分も納得できる「意味のある仕事」をすれば良いんだ。
確かに、誰が見ても良い仕事も大切。
しかし、人には理解されにくいことでも、意味のある仕事が凄く大切。
例えば…
サッカーやバスケットボールでも、シュートを決めている人は、確かに脚光を浴びてカッコイイ。
でも…そのシュートにつながるまで、体格差に負けずにディフェンスをしたり、何とか味方がシュートを打ちやすいパスを出そうと、コートの中で自分にできる仕事を懸命にやる人も必要。
だから、不器用でも「本気」で自分の働きの意味を感じて取り組めば良い。
むしろ、上辺だけの巧さは、必ず見透かされる。
営業成績が良い人でも、社内のどういう人達のチカラを借りているのか…。または、営業現場ではなく間接部門の人達も、自分の働きがナニにつながっているのか…。
バックアップへの感謝や、支援している自分の働きの意味が、双方向に有機的に機能していないチームは、必ず人は疲弊する。
職場での働きの意味を信頼に変える
人の目を気にするよりも…常に自分の「心」と向き合いながら仕事しよう。
いつまでも「頭」で理解しようとしてしまうから「行動」に移せない。
自分達が喜ばせたいお客様の先にある幸せに向けて、自分の働きを活かしたいと思うなら、仕事の意味や「あり方」の大切さに気づく。
ところがノルマ達成、業務遂行そのものが「目的」となるなら、顧客の幸せが自分の幸せにつながることもなく、もはや「自分」ではなくても、誰がやっても良い仕事となる。
自分がここで働く「意味」を理解して腑に落ちると、その日から自ら考えるようになり「行動」も変わる。
なぜなら「心」が働き始めるからだ。
「自分、デキル人です!」的なアピールをする前に、まずは、目立たぬことでも意味のある仕事を邁進することだ。
それは、必ず「信頼」につながる。
その「信頼」には、日々の自分の仕事ぶりの「責任」が認められている。
人に媚びる・頼る、人と群れる・騒ぐ…そういう振る舞いに自分の身を置いていると、家族・お客様への感謝・日々のあたりまえの感謝や、人への感謝から、自分が遠ざかっている事にも気づかない。
そういうオトナの背中も、次世代の子供達は必ず見ている。
自分が向き合う価値づくりが、どのようにお客様の笑顔につながるのかを考え抜き、全てを次につなげる。
挑んだ結果の失敗は、必ず次につながる…いや、次への「糧」として、必ずつなげる。
人の目を気にして挑むことを恐れていたら、何にもつながらない。
意味のある仕事は、意味のある挑戦は、次につながることが多い。
それは、見えにくいことが多いんだけど…それこそが、唯一無二の自分オリジナルの「無形資産」なんだ。
それでも、組織側も、働き手も、「粗利益」の意味を間違えていると…「心」を感じない組織統制の空気なら、心を働かせて意味のある仕事をしている人は評価されないし、働き手も、顧客の幸せなど自分には無関係だと、機械的に作業することの繰り返しとなる。
粗利益の意味を誤解していないか?
さて…最後に、組織を運営する側も、働き手も、「粗利益」の意味を誤解している人が多いことに触れておこう。
粗利益が荒稼ぎになってはいけない
「粗利益」を高めるとは…「たくさん売る」×「価格を上げる」という誤解が根深いという点で、それでは「荒稼ぎ」している者たちと大差がない。
決算前はノルマ達成が厳しい状況だと、「売りつける発想」に陥り…周りからの信頼も含め、必ず歪みが生じる。
つまり、お客様への想いも、社内の業務連携への感謝も、どんどん薄れていってしまう悪循環となる。
粗利益は、「顧客に深い関心を持つ」×「未来の価値を共創」…この掛け算が本質であり、つまりは、「価値創造力の高さ」を示しているものだ。
これを歪めると、必ず「がんばり方」を間違えてしまうんだよね。
ボク自身、その「粗利益の本質」に気づくまで、随分と遠回りをしてきた。その気づきを与えてくれたのが「会計的概念」だった。
どこにいる誰にどんな幸せをもたらせたいのかという想いを描く価値をづくりと、自分が働く意味をどう自分に納得させるのかを「会計的概念」で物事を整える事を学ぶ機会。
これは、学生だけでなく…、子育て世代の親御さんも知っておくと、その後の学び方も、働き方も、生き方もを間違えなくなるんだろうな。
一時期の失敗でカネを失うことは小さな事。
自分達の価値創造力を本質的に高めることもなく、自分達が働く意味に納得がないまま、顧客の信用を失うのは大きな事。
しかし、もっと恐ろしいのは、本質的な価値づくりのあり方に向き合おうとする勇気を失う事だ。
その勇気を失うと、いずれ全てを失う。
「ずっと失敗を繰り返してしまうと、どうなりますか?」と聞いてくる人への回答は、ボクらはいつも同じだ。
「ずっと失敗を繰り返して来たら?良かったじゃないか…その失敗の全てを自分の『糧』にすることができなら、オンリーワンには成れる。そしてそれは、他の人から未来の自分の行いに期待と信頼となることもあるんだ。」
家族で得た大きなもの
上を見ても違和感が残り、下を見ると優越感に浸り、横を見ても劣等感が襲い、後を見ると挫折感が漂う。
上を目指す・下を見下す・横と比べる・後ろへ退く…気が付けば、その一切をこだわらなくなっていた。
それは、自分自身だけではなく家族全員がそんな感じ。
変わって行ったというよりも、家族それぞれに降りかかってきた理不尽なことを、家族全員で乗り越えた試練によって気づいたことかもしれない…。
ブレない軸をなんとしても創りたかったなんていうカッコイイ話でもない
気が付けばブレない軸になっていただけ…というのが正直なところ…
それが確信めいたものになると、不思議と上も下も横も後ろにも興味がなくなったので、今は、上も下も横も後ろも見ていない。
それなら…前だけを見ているんだろうか。
ある意味そのとおりだが、前だけを見るのではなく…ボクらは「先を見る」ようになった気がする。
前だけを見ていても憔悴感が漂う時があるしね…その「先」を見ることで、自然とボクらは「今」も見えるようになった気もする。
いや、もはやボクらは「先しか見てない」のかもしれない。
「夢」というよりか「現実的な先」という表現が合うかな…だから、日々の暮らしを丁寧に生きている。
だから、日々の働きに自分達が活きている。
もしそうでないならば、そういう場を自分で切り拓こうとしている。
たくさんの失敗を繰り返した者達でないと得られない財産がある。
ボクらは、お金や資産が満足できるほどなくても、納得して積み重ねてきた「財産」がある。
つまりは「無形資産家」になることは、誰にでもできるということだ。
少なくとも、わが家は「無形資産家」である。
その上で、自分にできること・自分だからできること・自分にしかできないことが、人にどう喜ばれる価値を産み出すことができるか…本質的な粗利益につながることを、自分達の糧にしようとしている。
<参考コラム>
Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳
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