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教育改革を発育変革へ

今の学校教育の「国語・算数・理科・社会+(英語)」という科目は、進学や就職を目的とした学びであり、長い目でみると「非日常的」な学びと言わざるを得ない。
「衣・食・住・遊・働」という科目に置き換えると「読み書きそろばん」はもちろんのこと、化学や生物学、歴史や社会学などは全て自然と盛り込まれており「自分を活かしたなりわい」を身につけていく上でとても「日常的」な学びと言えるんじゃないかな。

むしろ、自分らしさを押し殺して辛いことを我慢してお金を得ることが働くことだということが日常化・美徳化している人が多い事の方が末恐ろしい。
ボクらは、いつまで次世代を担う子供達に同じ轍を踏ませようとしているんだろう。

前回コラム「ロックな教育改革」

今回は、上記の言葉で終えた前回のコラムの続きとして、小学校からの科目設定を「国語・算数・理科・社会」から「衣・食・住・遊・働」に変革させることの意味とメリットを綴ることにする。

なお、草の根の活動で身近なところから実現させることを決めてはいるが、現時点では個人的妄想の範疇から出るものではないため、重箱の隅を楊枝でほじくるようなご指摘はご遠慮いただけると幸いである…^^;



義務教育の本質

そもそも、何のために人は学び続けるのか?

家庭でも学校でも、一般的には人が学ぶ「目的」を確認し合うことなく学校科目の学び方…つまり「手段」についてのみ関心を寄せる傾向が強い。
そのためなのか「国・算・理・社」が、実社会や日々の暮らしで具体的にどういうことにつながるのかを確認し合う機会は、ほとんど見受けられない。

とりわけ小学校に入った後は、家庭でも学校でも子供たちは「監視」されている大人達から学ぶことの習慣づけに従順であることが求められ、その成果として表れるテスト結果だけが評価の対象となりがちだ。

それでもそれで高い評価になると、いわゆる「良い子」と言われる。
子供本人ではなく、近くにいる大人にとって都合の良い子ということだけかもしれないが、世間的に言う「良い子」の出来上がりとなる。

本来、義務教育とは「子供が教育を受ける権利を妨げない」ことが本質。
そのため、子供達が「教育を受けなければならない」という義務を、周りの大人達に押し付けられているものではない

ところが「子供には教育を受る義務がある」ということが常識化しているのか、実質的には監督管理をしている大人が喜ぶ成果を上げることが人としての優劣を決める風潮が、小学生の頃から漂っていないだろうか。

そう考えると「子供達が学びたくなる環境設定」や「一人ひとりの主体性が育まれる土壌づくり」を築くなど、夢物語だと言わざるを得ない。

専制君主制や独裁国家ではない現代社会の我が国では、誰もが生まれながらにして、自分らしさを活かして幸せになる権利を持ち合わせてきたはず。
ところが、上記のような教育環境では、組織や社会形成における何かしらの統制下において評価を仰ぐことが習慣となる大人になりかねない。

だからこそ、自分らしさを活かして生き抜いていくための「衣食住遊働」に直結する学びを小学生のうちから探究したくなる環境をつくりたい。
その環境設定により、学び続けることの目的や意味を見失うこともなく自分らしさに蓋をしてしまうこともなくなる可能性が高い。


衣食住遊働を学びにする意味

もちろん、従来通りの科目を撤廃するとなると、現行の教育学会や教諭資格制度、入試検定試験、学習塾や進学塾、企業の雇用制度など、あらゆる方面について根本的な基盤をひっくり返るので、大混乱が起きるだろう。

しかし、次世代の子供達の可能性を考えると「教育改革」という大人の都合や既得権益の臭いもするエゴが漂うような小手先の改革では、意味がない。

大切なことは、以下に述べる経済環境の大転換が起きていることから目を背けずに、人育てのあり方そのものを変えるために「改革」どころか「変革」に近いものが求められる…つまり、子供達の未来の姿に目を向けることだ。

結婚の晩婚化は生物学的にも出生率が落ちる一方であるため、少子化対策を掲げる制度整備では根本的解決にはならず「慢性的な人口減」が確定的。

そのため、これまでの成長経済の前提はナンセンスな時代に突入しており、マスマーケティング理論や、これまでの価値づくりの常識は何一つ通用しない時代に突入していく。
慢性的な人口減が加速化していくと、企業規模が大きいことや、マーケットシェアを獲得している企業なら安泰という神話が崩れてきている。

要するに、今の子供達が社会人となる頃には、今までの常識では考えられないような「未来のあたりまえ」を創る主体性と実践力が不可欠なんだ。
つまり、人が育つ土壌づくりを考えると、一人ひとりに「イノベーション」を創り出すチカラが求められるんだよね。

・得体のしれないものを産み出すチカラ
・物議を醸し出すものを提示するチカラ
・必ずやり抜いて実現するチカラ

二宮健嘉氏による「イノベーションとは何か」レクチャーより

これらのチカラを養うためには「自分らしさを活かしながら、一人ひとりが主体的に新しい価値を創る意欲」こそが基盤となる。

だからこそ、これまで以上に「何のための学びなのか」を明確にするためにも、現状の科目設定は撤廃して「衣食住遊働」に直結する学びを探究したくなる環境を幼いうちから提供していきたい。

  • 装いが自分や周りに与える影響とは何か「衣」

  • 自分に合う食べ物や食べ方とは何か「食」

  • 自分が活きる住まいづくりや地域との関わりとはどういうことか「住」

  • 明日への活力と自分が磨かれる遊びとは何か「遊」

  • 自分だからできる価値づくりとはどういうことか「働」

そして「国・算・理・社」という科目を撤廃して「衣・食・住・遊・働」の科目には、それぞれの専門教諭を置き、学年に合わせた学びを体系的に実施していくことには、次のような意味が出てくると考えられる。

  1.  答えが人によって違う(多様性)

  2.  答えの終わりがない(持続性)

  3.  教諭も担当外の科目に関心を持つ(関連性)


1.答えが一つではないからイイ

従来どおりの「国・算・理・社」は、全ての問題とは言わないが、概ね求められる回答は一つになる。
一方で「衣・食・住・遊・働」で学んだことによって見出す答えは、人によって全く違っても構わないものとなる。

もちろん、各学年(年代)に合せて、各科目の「基礎」は学んでもらう。
それは、先人が培ってきたものを参考にして、徹底的に「真似」をするところから始めることで構わない。

以前のコラムにも記載したが「真似る」と「パクる」では大きく違う。
「真似る」とは学ぶこと。
「パクる」とは盗むこと。

先人が培ってきたありがたい知恵を授かりながら、徹底的に真似ることで、構造を理解することが肝要であり、根本的なことを自分のものにできたら、あらたな構造改革が生れる機会も失わせない学びとする。

もうこの時点で、徹底的に情報処理能力を高める今の教育プロセスとは大きく異なり、編集能力やコミュニケーション能力など、知識よりも知性が磨かれる環境づくりにもなっていく。

その先に表現されるものが人によって違うということが認められるようになるだけではなく、いずれは人と違うことが求められる社会になることを考えると、個々が持つ想像力や実践力を伴う「学びのプロセスそのものを楽しめる環境」になっていく可能性がある。

答えは一つではないから良いのだ。

2.ゴールなき探究を楽しむ

「衣・食・住・遊・働」の学びの探究は、評価する大人の満足に応えるものではなく、自ら納得できるところまでやり抜こうとする「主体性」を伸ばす可能性が高くなる。

自分の人生を切り拓くことや、人に認められる価値づくりを追求していくということは、こうすれば上手くいくというマニュアルなどもなければ、これが終着点であるというゴールもない。

つまり、終わりなき旅であるため、ロングランなライフスタイルが必要となるばかりではなく、息切れすることなく長続きするためには、上手く生き残るチカラよりも、本気でやり抜く楽しさを感じながら、納得できる歩みとする必要がある。

今の社会風潮における「職場環境」では、ノルマ達成の目標クリアと、やるべき仕事のタスクを正確に片づけていくことが「働く目的」となりがちだ。

ところが、それは競合他社との優位性を確保することや、組織内での自身の出世することばかりが「目的」となりがちであり、生活者の基盤となる衣食住のあり方をより豊かにすることや、経済の中心に「生活者の心」を見据えた「ありがとうの循環経済」の実現からは徐々にズレが出てくる。
経済の中心が「お金」になると、どうしても目先の利益優先・自分さえ勝ち組となれば良いという現代社会の風潮と何も変わらなくなる。

大手企業を中心とした事業者の不正や不祥事は、後を絶たないことがその象徴的なことだ。
不正会計・不正検査・不正表示…これが蔓延るうちは経済の中心には生活者の心があるのではなくカネと見栄のオンパレードである。

ノルマさえクリアすればいい。
タスクさえ全てこなせばいい。
やるべきことをやって何が悪い。

この感覚は先に述べた『周りの監督者にとって好都合な「良い子」である』だけであり、実際にそうした行為が生活者の安心と安全を脅かすことになるのは、自分自身にも還ってくるという思考も停止してしまっている寂しい大人のやる姿である。

企業不祥事がなくならない根本的原因を関連コラムにもしたためた。


自分が満足できる地位や名誉を高望みするのは欲が出やすい一方、自分が心から納得できる価値づくりを掘り下げながらゴールなき探究のほうが、自分の人生を振り返った時に、どちらが幸せかは後になって気づくことだ。

「散々自分は自分の本当にやりたいことを我慢して、自分の労働力を生贄に差し出してきたんだから、これくらいの報いを受けて当然だろう」という生き方をするために、子供達に小学生の頃から学び続けてもらうのではない。

自分の未来に期待したくなるような「衣・食・住・遊・働」に活かすために学びがあるはずなんだ。
つまりは「生涯学習」ということになるんだろうけど、まさにそれでいい。

3.教諭も他の科目に関心を寄せる

今の小学校では、担任教諭が一人で現行の各科目の授業を担う。
ところが「衣・食・住・遊・働」の科目に移行していくと、各科目の専門の教諭が自分の専門分野の授業を担うことになるだろう。

その場合、子供達に「未来の自分の日々の生活において、必要不可欠なことを自分で高めていくための学び」であるがゆえに、おそらく担当教諭は、自身以外の担当科目についても大いに関心を寄せることになるだろう。
担当外の科目も、教諭自身の日々の生活には必要なものとなるからだ。

特に「遊」「働」の科目については、教諭自身が担う専門科目にも大いなる関連性も出てくるし、担当外の科目を学び続けることで、自身の専門科目についてもクオリティが高まる可能性もある。

要は、大人であっても子供であっても「無知であることが問題なのではなく無関心であることのほうが大きな問題である」ということは、対等に確認し合えるということだ。

教諭も教員資格を取得することがゴールではなく、教諭になった後も自身の日々の暮らしにも活きるし、担当する専門科目もブラッシュアップし続けられる環境になっていく可能性が高くなるんじゃないかな。


上記の通り3つの意味があるため「国語・算数・理科・社会」の科目を廃止して「衣・食・住・遊・働」を新たな学科目にする意味はとても大きいと感じている。


子育て世代の役割

「未来のあたりまえを創る」ということは「習慣の変化」が必要となる。
実は、今までを生きてきた者にとっては「習慣が変わる」なんていうことは戸惑いとストレスを大きく感じるはずだ。

でも、子供を持つボクら世代は、何も心配する必要もなければ無理な抵抗をする必要もない。
「未来のあたりまえ」は、子供達の世代がボクらが想像もつかないような驚くべき価値を創り出す可能性に任せればいい。

だからと言って、ボクら世代はやるべきことがないわけではない。
ボクら世代の役割は「今ある常識を疑う」ことなんだろう。
もちろん、これも楽なことではない。
むしろ「今ある常識を信じて疑わない」ことのほうが楽だからね。

でも、確実に言えることは、子供を持つボクら世代が「今ある常識を疑い、新たな価値づくりのあり方に挑む」ことの姿勢と実践を魅せていかないと、次世代を担う子供達は「未来のあたりまえ」を創ることなどできず、結局は「今ある常識を疑う」ことの役割を繰り延べさせているだけとなるんだ。

それならば「なぜ子供達の未来に直結していない学科目のままなのだろう」というのが、今ある常識を疑うことの一つだったいうことだ。

おそらくね…国もすぐ動かない。
行政の動きも遅ければ、場合によっては教育委員会などからも不都合な活動をし始める人たちがいると揶揄されるだろう。

でも、ボクが事業活動をしてきた中では「この国の人育てのあり方」と「価値づくりのあり方」には深い相関性があることを充分に気づいており、感覚的に「子供達の一人ひとりの主体性が育まれる土壌づくりが最も重要」と感じている大人も地域を超えて増えてきた。

それは何も、事業活動をしている人のみならず、学校教育に関わっていた元教諭の人達、幼稚園や保育園を経営している人、地域活動をしている人など大変感度の高い人が実在している。

そうした人とのつながりと、ボクのような投げかけをキッカケにして、本来の教育改革…いや「発育変革」の実現に向けて、どんな動きをしていくと機能していくのかのブレインストーミングを始めてみることからでも良い。

企てというのは、実践力を伴ってこそのもの。
無論、大きな壁が立ちはだかったり、挑んでみてこその失敗もあるだろう。
それでも、ボクら世代から「今ある常識を疑うこと」を始めたのなら、挑んでいる行動力こそが、次世代への最大の説得力にもなる。

ボク自身も本業やコミュニティ運営もあるため、こればかりをやっていくわけにはいかないが、ライフワークにしていくべきものなんじゃないかなと心の中に強い芯みたいなものが浮かび上がりつつあるところだ。

Backstage,Inc.
事業文化デザイナー
河合 義徳

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