すべての過去を売った青年 前編
司法試験とリサイクルショップ
「……また不合格か」
努は人生で8度目の、司法試験予備試験の結果発表のWebページを眺めてため息をついた。
「…光にまた謝らなきゃ、だな。ああ、いつまでアイツ待たせんだよ!」
とぼとぼした足取りで、努はアルバイト先に向かう準備を始めた。パートナーの光は正社員なので、既に朝の支度を終えて出勤した。努は週4で6時間勤務である。自分の夢と無関係なバイトだが、たまたま飛び込んでみたら続けられたから、書籍代と生活費捻出のために5年半もそこで働いている。
電車の吊り革を固く握りながら、来年度の試験に向けて今日も彼は参考書を読む。暗記は得意な方だが、論理展開となると努はからっきしダメである。
(……この民法物権の条文が、なんでこういう理由づけになるのか納得できない。俺って才能無いんだな。努力するしか……)
努が天を仰ぐと、中吊り広告が目に入った。彼の夢である法律事務所の広告には「借金の過払い金返還請求!」という文言が踊る。広告を出すからには、儲かるのだろう。儲かる。若ければほとんどの人が飛びつくワードである。
(人助けして儲かりたいな)
努が高卒すぐの頃は「人助けしたい」だけだったのだが、光と2人で暮らし始めてからは、とにかくお金がギリギリで、儲かりたい気持ちの方が今は大きい。昔はこうじゃなかったっけ、そんな気持ちを、顔に来た虫を手で払うような慌てた感じで振り切り、別の広告に目をやった。
「過去を売り、未来を買える!」
テレビやラジオでもよく耳にするフレーズがおなじみのリサイクルショップ。努も古くなり試験に使えなくなった参考書を売りに行ったり、好きなミュージシャンのCDを買いに行ったりする。行きつけの店舗では今や店員と友達のような関係である。
(本当なら、好きなアーティストの曲は新品で視聴したいけどな)
アーティストをお金の面で応援できるのは、地元に年に2日しか来ないライブの時だけ。スマホの聴き放題アプリでも、イヤホンからコーヒーをがぶ飲みするように聴いている。努のイヤホンの音量は大きめであった。その方が電車内の煩わしい出来事から逃れられる。車輪とレールが奏でる規則性のある騒音も、ラッシュアワーが終わった直後に乗る客たちの醸し出す少しばかりの憂鬱も。
「おはよう努くん」
「おはようございます店長」
電車で3駅ほど先の家電量販店が、彼の職場だ。
「今年の試験、どうだった?」
「今年もダメでした。また来年がんばります」
「もうウチで正社員で働かないか?勝ち目の薄い司法試験なんか追いかけないでさ」
「今年もお気持ちだけいただきます」
不合格のことを一旦忘れて、努は今日も売り場へと向かった。
「このレコーダーには番組検索機能というのがありまして、レコーダーに単語をご登録いただくだけで全自動で録画ができて…」
「このパソコンのUSB-Cという端子は、充電にも対応してまして…」
努にマニュアルは不要だった。暗記は得意だ。それぞれの家電が売りにしている機能、寸法、交渉で値下げできる上限額、ほぼすべて頭の中に入っている。毎年4月になれば、大学を新卒で入社してきた新人たちが舌を巻くほどのスキルだ。
「努くん今日もお疲れさん。コーヒーおごるよ。仕事終わり、15分だけ残念会だ」
「ありがとうございます」
「その、予備試験ってのさ、法律と無関係な問題ばっかりなんだろ?数学とか歴史とか理科とか」
「そう、ですね。公務員試験の筆記(試験)に近い感じです」
「お金貯めて大学入って、法科大学院とやらに通った方が、遠まわりのようで実は近道なんじゃないのかい?」
「いやあ、俺もう26歳っスよ。この歳で大学なんて入っても仲間外れにされますし…」
「そうか?このままの勉強を続けても、孤独なのは変わらんよ?」
「俺が得意なのは暗記ぐらいなモンですから…」
「光ちゃんを、そうやって待たせ続けるのか?」
「すいません、もう上がっていいスか?」
そう言うと、努は立ち上がって帰路についた。
駅まであと2、3分のところに、努は馴染みの看板を見つけた。『リサイクルショップ・ダブルエース』と書いてある。電車の中吊り広告の、あのリサイクル店だ。
「こんな場所に新しいお店できたんだな。なんか息抜きにCDでも買って帰ろうかな」
1時間後には光が帰宅する。8度目の不合格を告げるのは、もはや年中行事になってしまった感覚はあるものの、やはり気まずい。それに、この店からは他の店舗には無い、掘り出し物がある予感がした。
5秒ほど立ち止まって、予感を信じ、努は店の入り口をくぐった。
「いらっしゃいませ」
20代後半とおぼしき若い店員がカウンターに立っていた。努は彼女に軽く会釈して、CDコーナーの場所を尋ねて、お目当てのCDを買い漁りに向かった。彼は音楽聴き放題アプリの音質には満足していない。CD音質の方がくっきりと綺麗な音だし、ステレオに結構お金をかけている。何よりも、オフラインで聴けるから、聴き放題アプリでうっかりダウンロードを忘れてスマホのギガが減ることもない。
程なくして、この店にもう新作アルバムが入荷していることにひと通り幸運を感じた。今朝の不合格のアンラッキーがかなり取り返せたとすら思った。奇跡的に傷も汚れも無いCDを手に、先ほどのカウンターに向かった。
努はCDをレジに置きながらつぶやいた。
「『過去を売り、未来を買える』か。あーあ、俺の過去を全部売ってでも、望む未来を買いたいなあ」
「できますよ、それ」
「え?」
努は目を丸くした。何を言っているんだ、この女は。
「いやいやいや、冗談ですよ、ただの独り言。だいいち、人の過去、思い出とか、売れんの?」
「当店では、なんでも売り買いできますよ」
店員はそう言ってニコっと笑った。
「バカな冗談はやめてくださいよ。人生売って人生買うって、まるで小説か何かでしょ?」
「本当に売れますよ、お客さまの人生」
「…俺の今までの人生売って、俺の夢が叶う新しい人生、買えますか?」
「買えます。どういった人生をご所望ですか?」
努の胸は高鳴った。過去を売って司法試験に受かるなら。合格して、光を喜ばせることができるなら。……努は沈黙を身にまとった。実際にかかった時間は、1分だったのか、10分だったのか。過去が、走馬灯のように走り抜けた。そして、意を決した。
「俺の過去、全部売ります。代わりに、弁護士になる人生をください。あと、このCDも」
「かしこまりました」