さようならのメロディ 第一話
「振り向くな君は美しい」
振り向くな、振り向くなよ、絶対に。
振り向いたら、戻ってもう一度抱きしめたくなってしまうから。
春子に言いたいことは全部言った。だけど未練が残っている。俺にはもったいない人だけど、できることならまだ側にいたい気持ちがある。
春子は立ち去る俺の方を見ず、明日に向かって歩き始めているだろうな。
ああ、振り向きたい。あの安心感を与えてくれた、春子の顔を、見たい。
ダメだ、耐えろ俺。俺は歩幅を広くして小走りになった。
早く忘れようーーー
今日終わった恋を今日忘れるなんてのは無謀だ。分かってる。現実逃避して明後日の方に行ってしまうのは良くない。
もう一つ分かることは、春子の心の中では、もう俺という存在が、サンダルを履いた時に足の裏に紛れ込む砂粒のようなものでしかないということだ。
俺の頬を、雨と涙が濡らす。
秋の冷たい雨と熱い涙の混ざりようは、「別れる決意」と「まだ付き合いたい未練」を内包した俺の心そのものだ。
何だよもう。アイツの気が変わったことも、アイツが浮気したことも、別れ話に呼び出されたことも気付けない俺は本当に馬鹿だ。でも100%俺が悪いのかよ?
ああ、もやもやする。俺、春子のこと嫌いになる努力をしてしまっている。そこは「これからもお幸せに」で良くないか?
次に春子の姿を見る時は、おそらく知らない誰かと腕なんか組んでるのかもしれない。案外早々と、そんな光景に出くわすような気がする。
実は俺の方が浮気の対象だったかもしれない。そう考えると心臓をえぐられるようで、思わず俺は嗚咽を漏らした。
情けない奴だよまったく。冷たい雨の中、恋人に別れを告げられて、傘もささず勝手に泣いているなんて。
帰って一人で泣きたい。でも雨足がどんどん強まる。結局、食品スーパーに駆け込んだ。だけどビニール傘は売り切れだった。
軒先で雨宿りしていると、初老とおぼしい女性が、個人用の買い物カートを押してお店から出てきた。そのおばあさんも傘を持っていなかった。
「あら、雨ね。しばらく帰れないわ。あら、あなた...泣いていたの?」
涙の跡を見られてしまった。隠しようがないなら、全部話してしまえ。雨宿りの暇つぶしにはなるだろう。
一通り話し終えると、おばあさんは一つ息を吸って、こう言った。
「自由は神からの罰、っていうお話があってね」
「自由が、罰、ですか?」
驚いて訊ねた俺に、おばあさんは言葉を続けた。
「あなたもご存じかもしれないけど、私が若い頃はね、結婚相手は親が準備したお見合いで決まる事が多かったのよ」
「恋愛が自由にできなかったんですよね...」
「今とくらべて、赤の他人と会える場がなかったのもあるわね。でもね、親どうしがそれぞれの人となりをよく観察してお膳立てしたお見合い話は、上手くいく場合が結構多かったの」
「街で出会った誰かに心が揺さぶられることはありましたか?」
「それは人間だもの、あるわよ。でも私の場合、運よく夫とはすぐに気が合って、互いにちゃんと思いやることができたの。もしかしたら夫も、浮気したい衝動に駆られたかもしれない。でも私がいる場では、いつも私に寄り添ってくれた。ついには、この人になら、たとえ浮気されても憎んだりしない、そうまで思えるようになったのよ」
「浮気されても構わないくらいの、愛......」
おばあさんは雨だれが落ちるようなリズムでポツポツと語る。
「あなたたちは自由よ。恋に落ちるのも、その恋を続けるのも終わらせるのも自由。あなたたちの世代は、神様や仏様みたいに大きな存在や、周囲の大人に委ねることができない分、何が一番いいかの結論まで自分で考えないといけない。責任と苦悩という罰を与えられたも同然、って、昔の学者が本に書いたの」
「そうか......自由って言葉は輝かしいだけじゃないんですね」
「今日は泣くだけ泣きなさい。弱音も吐けるだけ吐いたらいいわ。涙は人生の歩みを進めるための薬みたいなものよ」
「涙は、薬......」
おばあさんは続ける。
「人生長ければ長いほど、別れが積み重なるものよ、死に別れ以外でも。けれど、離れていった人たちも、どこかで誰かと幸せに過ごせていたらいいな、そう思える時が必ず来るから。あなたも今日のこと、笑って誰かに話せる日がきっと来るわ」
「......あ、晴れた」
「失敗は成功の母よ。立ち直って、次のいい人が見つかるといいわね」
「ありがとうございました」
おばあさんにさよならを告げて夕方の空を見上げると、虹がかかっていた。
今、言えるかな。心の中でだけど。
さよなら、春子。ちくしょう幸せにな。悔しいぜ俺が幸せにできなくて。ぜってーお前よりいい相手探して、俺も幸せになってやる。お前との思い出、忘れない。
......ごめん、まだ泣いちゃうや。