メタバースとニンゲンのこころ【弦人茫洋・11月号】
メタバースを初めて体験した。
興味を持ったのは10/29(土)放送分の「オードリーのオールナイトニッポン」にて、若林さんがメタバースの話を紹介していたのを聴いて。
Radikoでは放送終了後1週間までアーカイブを聴けるのでもし興味がある方は良かったらぜひどうぞ。
今回は初体験のメタバースで僕が感じたことなどをざっくばらんに。
現実世界とそれ以外の境目って何だろうと考えたとき、そこに自分が参加していることを実感できるかそうでないか、という点が大きいと思う。
たとえば小説。漫画やアニメや映画でもいい。単行本を開いてルフィに向かって話しかけても、スクリーンに映るトム・クルーズに挨拶しても、返事は返ってこない。それはルフィやトム・クルーズが僕たちを無視しているわけではなく、彼らはそもそも作られた世界の向こう側で表現されているものであって、今僕たちが生きている世界とは別の世界の住人だから、意思疎通ができない。
当たり前の話だ。
対して現実世界では、自分が取った行動に対して反応がすぐに返ってくることによって自分と相手が地続きの同じ世界に住んでいることを感じられる。廊下ですれ違った上司に挨拶したけど無視されたというようなとき、自分の声が小さかったか、相手が考え事をしていたか、上司が自分を嫌っているか、など考えるが、比喩ではなく物理的(?)に「住んでいる世界が違う」と解釈する人は居ない。
これも当たり前の話だ。
そう考えると、何かを現実であると感じ取るうえで重要なことは、反応が起こるまでのスピードだと言える。だとしたら、現実の世界にありながらも反応にラグが生まれるものは、ひとつの「世界」として没入することが難しいのだと思う。Twitterに「おはよう」と打った。1時間たっても2時間たっても誰からもリアクションが無い。そのことに心から傷つくことが少ないのは、画面の向こう側に人々の生活があることを知っているから。クラスや職場で同じことが起きたら傷ついて立ち直れないけど、SNSってそういうものだし、それはそれでうまくやろうと思えば、うまくやれる世界だ。
メタバースをやってみて面白かったのは、そこにいない人に向かって話しかけても返事が返ってこない、という現実世界では当たり前のことを新鮮に感じられたことだ。それこそTwitterなどSNSでは(あるいはこんな文章だって)、そこにいない人に向かって話しかけることが前提となっているから、その辺の空気感と比べるとメタバースの世界って異様なリアリティがある。グラフィックが綺麗とか目で見てわかるようなことでなく、そもそも人との関わり方がリアルに感じた。それが「実際にはリアルではない場所」で成立しているのだから余計に面白い。むしろ、リアルと呼んでもほぼ差し支えないのではとすら思った。物理的に空間を共有しているわけではない、けれどもリアル。たとえば電話で誰かと話すときに、同じ部屋にいないから相手は架空の存在ですと言わないことを考えると、メタバースだって十分に現実世界なんだろう、きっと。現実の延長上に建設されたユートピアみたいなものじゃなく。
この辺の感覚を体になじませるのって、ちょっと大変かもしれない。自分にとってゲームとは電源スイッチによって切り取られた架空の世界であって、日常と相容れない存在だったから。ロクヨンだってゲームボーイだって何だってそうだった(たとえが古くてごめんなさい。ゲームはゲームボーイアドバンス以来ろくにやったことがないもので。。。)。「ゲームで遊ぶこと」は日常の一部だけれど「ゲームのなかで体験すること」は非日常というか、マリオがキノコ食ってでっかくなるのとかは日常ではありえない出来事なわけで、ありえないからこそ楽しかったわけで、それはある種のエンタメであったわけで、エンタメだからこそ友達と共有できたわけで。小学生当時の自分に、「未来のゲームでは渋谷に行って気の合う人と趣味について話したり、疲れたら喫茶店に行ってひとやすみしたりできるよ」と言っても、心に響かないだろう。それの何が面白いのかさっぱりわからないだろう。そんなのゲームじゃなくても出来るでしょうと。
コロナで人と人との物理的な接触が減ったからネット上での付き合いが加速したというのは、あり得る話だとは思うけれども、でも、きっとそれがすべてではないと思う。
コロナがなくても。
極端な話、縄文時代にメタバースがあっても。
人はきっとそれを受け入れたのではないか?
僕は個人的に「いわゆるリアル」を尊重したいタイプで生きてきた。音楽は録画よりも生演奏で聴きたいし、聴いてもらいたい。エフェクターだってアナログに勝るデジタル無しと思(ってた時期が長かった。最近はそこについては考えが変わった)。コロナで配信ライブが流行り出したころもイマイチ乗り気になれなかった。やむにやまれぬ代替案として仕方ないとは思っていたものの、それで十分に成立するとは考えていなかった。
これって微妙なバランスの話で、おいそれとは書きにくいんだけど、配信だろうと何だろうと「音」は「生」でしか「鳴って」いない。それをその場で体験するかそうでないかの違いであると言える。生であることこそが至上の価値だと考えるのは、魚は釣り上げた瞬間に刺身で食べるのが最も美味であると言っているような雰囲気がある。高級料亭の懐石料理も釣り船のうえで食べる生の魚には敵わない、と言ったら、それはそうかもしれないけど、懐石料理との間に優劣を見出すのは違うんじゃないか?という。
配信しないし映像化もしないライブは漁船のうえの刺身みたいなもので、その場でしか体験できないからこその価値だった。それを広く共有してしまうと、漁船の味がご家庭でも再現できてしまうと、果たして価値は薄まるのだろうか?美味しいものを食べられる人が増えたらそのぶん社会全体としてハッピーなんじゃないか?拡散したことで薄まるような価値は、そもそもが上質な音楽体験ではなかったというだけではないのか?
ここまで書いてきたような道筋で物事を考えると、「いわゆるリアル」であることに一体どれほどの価値があるというのか疑問に思えてくる。街中でテレビのロケか何かしていても、昔より人々は騒がなくなったような印象がある。憧れの芸能人やタレントにだって何らかの方法で常時アクセスできるのだから、わざわざ生である必要がないのだ。Twitterもインスタライブもなかった時代は、ベールに包まれて謎な部分が多かったから、「生」で見ると興奮したのかもしれない。
おいそれと書きにくいと言ったのは、こうやって書くとバーチャル万歳主義みたいになるから。誤解なきように注釈しておくと、僕は生を批判しているわけではまったくない。なんだかんだ言って生の迫力って絶対にあるし、洗練されたものを直接肌で感じる体験が素晴らしいものであることには変わりない。それは縄文時代も令和も西暦10,000年の世界でも変わらない普遍的なものだと思う。
ただ、「生」ではないものの「生っぽさ」が昔に比べて飛躍的に発達したという話(それこそエフェクターなんか、まさによい例です)。
生であることにこだわったり、生とそうでないものを区別したりする必要がない時代になってきたんじゃないのか、という話。区別しなくてよくなったとしても生の良さは生の良さとして残り続けるということ。
話が逸れてしまったのでメタバースに戻す。プレイしてみて驚いたのは「旅館」のメタバース。客室に入ると座敷に布団が敷いてある、よくある旅館の風景だったのだけど、その風景を見て自分がいぐさの香りを感じていることに物凄く驚いた。もちろん、物理的に僕はそのとき自分の部屋にいたので畳を感じることなどありえないのだけど、それだけ没入させられたということだ。ビール飲みたいなとか。喫煙室ってあるのかなとか。ちょっとした旅行気分になった。息抜きすることだけが目的なら、わざわざ「実際に」旅行に行かなくても済むということは、本当に言えるかもしれないと思った。
旅館を出て広場に戻ると、あとからログインしてきた人々でにぎわっていた。音声をオンにして会話しているグループもいて、どうやら常連?というか、仲間内でよく遊んでいるメンバーのようだった。そのグループのいる場所から離れて路地を歩きながら、アバター操作の練習をした。ジャンプしたり、笑ったり、驚いたり、自分の実際の感情にあわせてそれを表現できるコマンドが細かく用意されていたのにも驚いた。
そんなわけで、アバターを操ってひとりで路地を爆笑しながらジャンプしつつダッシュしていたら、交差点で知らないプレイヤーに出くわして物凄く恥ずかしくなったので逃げた。
冒頭に書いたように、メタバース内における人と人との距離感ってやけにリアルなので、爆笑ジャンプダッシュを見られた時の気持ちは、そのむかし風呂でツェッペリンを熱唱してたら母ちゃんに注意された時の気まずさとほぼ同じだった。
他のプレイヤーにとっても同じようなことは言えるのだと思う。渋谷のハロウィンにメタバース上でログインしたら、「東京リベンジャーズ」のイベントをやっていた。109の真ん前に登場キャラのパネルが設置されていて、そこで物凄い枚数を自撮りしている人を見かけた。メタバースの中でもこんなことができるのかと驚いて、自分も自撮りをしてみたくなったので順番待ちをしていたら、しばらくして僕の存在に気付いたのか先客は猛ダッシュでどこかへと消えて行った。まあ、こういうのは、メタバースでなく本当の世界でも同じように気まずいときありますよね。同じことがメタバースで起こっていることに驚いたという感じ。
リアルさは人と人との距離感を本来の適正な位置に戻してくれるようで、メタバース上の人々が円滑に過ごしていることが印象的だ。言葉尻を捉えて毎日どこかしらでバトルが開催されているTwitterとは明らかに異なる雰囲気だった。そこにいない人に向かって言葉を投げかけても何も起きないので、バトルになりようがないし、見えない相手の顔色を窺って空気読まなきゃいけないエアリプみたいなものがそもそも成立しない。
仮想現実の渋谷の空気は澄んでいた。