
虹の足元①
混雑している喫煙所。土日祝日のイオン。
花見シーズンの目黒川。地元の夏祭り。
満員の通勤電車。駅のトイレ。
スーパーの特売日。ビールを冷やす隙間のない冷蔵庫。
これらはすべて、俺が嫌いなものだ。他人との距離が近い状況に、どうしても耐えられない。たとえ相手が親しい友人や恋人であったとしても、踏み込んできてほしくない領域というものは確かにある。誰の目にも、俺の目にさえもその境界線は見えないが、見えないからといって存在しないということにはならないのだ。
風呂上がりにビールを飲んでいると、スマホが鳴った。彼女の響子からの着信だった。
「キョウコ サン ガ ビデオ ツウワ ヲ カイシ シマシタ」
と、通知には書いてある。俺はカメラをオフにして、電話に出た。
「声が聞きたくて電話しちゃった。今何かしてた?」
「いや、何もしてないよ。ちょうど風呂あがったとこ」
「そうなんだ」
世の中には優先順位というものがある。風呂上がりのビールなど特に、俺にとって何よりも優先されるべき時間だ。ビールとは対話である。己との対話である。普段から同じ銘柄しか飲まないと決めているのに飲む度に味が違うのは、自分の中に何かしらの変化があるからであって、ビールの品質が落ちているせいではない。賞味期限が切れているわけでもない。真夏の青空のように果てしなく爽快な時もあれば、泥水のように濁って喉にこびりつく夜だってある。そういった味の変化は単に自分の体調が原因の場合もあれば、精神的な要因が影響しているのかもしれなかった。己との対話を邪魔された今宵のビールは、口に含むと舌の上で怒ったようにプリプリと弾けて、突き刺すような鋭い苦みだけが残った。
響子は、打っても響かない女性だ。完全に名前負けしている。いわゆる天然とは少し違う。おしとやかということでもない。響子は自分のペースを持っていて、彼女の世界には彼女の時間が流れているのだ。そのBPMが他人と調和することはなく、来る日も来る日も同じペースでリズムを刻み続けている。人それぞれに別々のBPMを持って生きているのは当然の話だが、それぞれに異なるBPMを一つにまとめていくからこそのアンサンブルなのであって、自分のBPMを頑なに守り続ける響子の生き方は、音楽的どころか機会的で、楽器というよりも壊れたメトロノームと呼んだほうがしっくりくるように思えた。
「今月、いつ暇?」と、相も変らぬテンポで響子が刻む。暇でないことなどあろうか。人生なんて百年の暇つぶしみたいなものだ。その暇つぶしが、上司の愚痴を肴に酒を飲むことだったり、ギターを愛でることだったり、己との対話だったり、春の雨にくゆらす煙だったり、ビデオ通話だったり、後輩の相談に乗るふりをして啜る焼酎だったりするだけのことだ。それらのローテーションのなかで響子の順番が今来ているか、まだなのか。それが、彼女の問いに対する答えだと思うので、俺は「そのうち」と返事した。
「なんでカメラつけてくれないの?」と響子は苛立っていた。珍しくBPMが少しだけ早くなっているらしい。俺は、ビデオ通話がそもそも好きじゃない。顔を見たいからと響子はいつも言っているが、スマホの画面に映し出される響子の顔はただの映像にすぎず、「顔」と呼ぶにはあまりにもお粗末だからだ。彼女の表情は多くを語っているはずで、くたびれた優しさや溜め息交じりに漏らす甘えもあれば、世の中に対する不満とか諦めのようなものもある。その一つ一つを受け止めて共有するからこそ会うことに意味があるのに、電気信号に変換されて画面に映る彼女の顔はうんと無機質なものへと変わってしまう。こころがどれだけそばにあろうと、スマホをたった二台挟んだだけで、ふたりの距離は果てしなく遠く感じるのだった。
なんだかんだ小一時間ほど話し込んだ。今夜の電話は俺の暇つぶしロスターを組み換えるだけの力は持っていたらしく、久々に飲みに行く約束をした。響子はコークハイが好きだがコーラそのものは飲めない。牛乳は大嫌いだが好きな飲み物はミルクティー。お洒落なイタリアンよりも薄汚れた大衆酒場のほうが好きで、飲みに行けばまず間違いなく馬刺しを注文する。狙いを定めた契約と終電だけは絶対に逃さない。そんな自分の世界で生きている。付き合ってから恋人らしいことをした記憶はほとんどない。飲み屋以外にデートへ行ったこともなければ、枕を並べて甘い言葉をささやき合う夜もなかった。それでも二人はそれぞれの世界を保ちながらうまくやっていて、お互いにその関係が心地いいのだった。恋愛というよりは、自国の治安を保ちながら隣国と同盟を結ぶ外交官の付き合いにも似ていた。そもそも「恋人らしいこと」なんて定義はなく、二人には二人だけの付き合い方があって、それが二人の恋愛であり、二人らしさなのかもしれない。俺より五つも年下の響子に、俺は今更そんなことを教わっている。飲み残していたビールは炭酸が抜けてボケた味がしたが、まだ少しだけ冷えていた。
寝室へ向かおうとしたその時、インターホンが鳴った。
いいなと思ったら応援しよう!
