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ギタリストらしさ【エッセイ・2023年6月】


先に断っておくと今月は構成が随分ややこしい記事になっています。

数年前のブログを引用→それを踏まえて書いたブログを引用→そこまでを含めて踏まえて書いたのが今回2023年

という構成になっています。


時系列的には
26歳→27歳→30歳
の順に書いた文章、ということになります。


ギタリストが「ギタリスト」についてどんなことを考えるのか、それは年齢と共にどのように変化するのか。そんな目線で読んでもらえたら、嬉しいです。



【26歳】

いきなり食の話からするけど、定食についてくる汁物がそんなに好きじゃない。
たとえば生姜焼き定食にくっついてくる味噌汁ね。白いご飯と生姜焼きで十分だし、喉が渇いたらお茶があるので、それ以上何もいらないのに、踏ん反り返ってお盆に乗っかっている味噌汁。ご飯と生姜焼きに負けないくらい主張してくる割には小物感が漂っている。虎の威を借る狐とすら思う。まぁ、生姜焼き定食だからこの場合「豚の威を借る豆」だけども。

そりゃあね、味噌汁単体で食べたら旨いと感じることもありますよ。二日酔いの重い頭に染み渡るしじみ汁なんて、マザーテレサより優しいんじゃないかって思うもん。
ただそれは味噌汁としての完成度であって、定食に出されたときは別。ご飯にも生姜焼きにも勝てるはずがないのに偉そうにすんなって思う。

汁物全般がダメかというとそうじゃなくて。チャーハン定食についてくる明らかに味噌汁的な中華スープあるでしょ。あれは別に何も思わないんだよね。あれは逆にないと。チャーハン食った気がしないくらい。

...今日は「チャーハン定食についてくる中華スープのようなものについて」。
ふざけた題でごめんなさい。でも内容は割と真面目です。

冒頭で散々こき下ろした通り、味噌汁に対して思うのは、主役じゃないのにデカイ顔すんなってことなんだよね。生姜焼き定食の主役は何ですかって言ったら当然、生姜焼きなわけですよ。それを差し置いてまで主張してくる感じがちょっと苦手なのね、味噌汁は。

一方、チャーハン定食についてくる中華スープのようなもの(以下、「中華スープ」と呼ぶ)は、チャーハンを別に邪魔してないし、味噌汁ほどの主張の強さも感じない。それでもちゃんと中華の味はして、「ああ、中華料理食ったな」って思わせてくれる力はある。

故 桂文楽師匠は、「らしく、ぶらず」を弟子に教えていたとか。つまり「落語家らしく、落語家ぶらず」ということ。
例えが飛躍してる感じは否めないけど、味噌汁と中華スープも同じかなと。味噌汁は味噌汁ぶりすぎている。中華スープは「らしく、ぶらず」のバランスがちょうどいい感じがして、だから好感を持てるのかなあ、なんて。

ミュージシャンやギタリスト界隈には(自分を筆頭に)味噌汁みたいな奴らばっかり。思うに個性というのは我を主張すればするほど薄くなるのではないかと。黙ってそこにあるだけが個性ではないかもしれないけど、何も言わずとも君を振り向かせる力がその人の個性なのかな、と思う。

俺みたいな味噌汁は、具を多くするとか薬味をたくさん入れるとか、手数を多くして頑張ってる割にはびっくりするほど薄味で。こういうのをまさしく「箸にも棒にもかからない」と言うんでしょうねえ。。。

中華スープでありたいと思う、今日この頃でした。


【27歳】

らしさとは何か、最近そんなことをよく考えていたので、ふと思い出して。


○○らしく振る舞うことと、○○ぶることは、似ているが大きく違う。

彼氏らしい振る舞いをすることは、彼氏面をすることとは違いますね。



僕はそういった意味で「らしさ」は大事だと思っていて、たとえば恋愛でも割とベタなサプライズやらは、やりたいタイプ。

それはデレデレするということではなくて、好きで居続ける(あるいは好きでいてもらい続ける)努力として必要なものだと思うのです。

どれだけサバサバな関係だとしても、年に一回くらいはドベタなことしないと、維持できないと思います。



ドライな言いかたをすれば恋人なんてものは所詮あかの他人なので(彼女がこの記事読んでいないことを心から希望する)、ツーカーだの、心で通じ合っていればわかるだの、そんな理屈はお門違いってもんです。この記事を読んでくれているあなたとこれを書いている僕とが、文章という言葉を共有してようやく繋がっているのと同じように。


だから、恋人らしさ、恋人っぽいこと、ベタな演出、などは大事です。

で、付き合っても無いのにそれらを押し付けると「恋人ぶってる」「彼氏面してる」となります。

なので、相手がいるぶん、恋愛において「らしく、ぶらず」は割とわかりやすいです。


ところが個人だと突然難しくなる。


よく言いますが自分らしさって何でしょう。本当の自分って何でしょう。

そんなもんいるのか?本当の自分を考える時、「本当じゃない自分」が存在しないと理屈として成立しないけれども、本当じゃない自分なんてどこ探してもいません。「本音ではない行動をしている自分」とかはいるだろうけど、そういう行動をしている自分は自分なのだから、本音じゃないとしても残念ながらそれも本当の自分です。



逆に「自分ぶる」って何でしょう。そんなことする人いるのか?

○○ぶるっていうのは、本当はそうじゃないけどあたかもそうであるかのように偽ることだったりするので、自分ぶる人はいないし、自分ぶる人がいない=自分は常に本当の自分=本当じゃない自分は存在しない=自分らしさを考えることに意味はない、と結論付けられそうです。



ギタリストらしさって何でしょう。ギタリストらしい振る舞いって何でしょう。

同じように個人の目線で考えても意味はないという結論になるのでやはり相手が必要です。

その相手というのは関係性によって変わるもので、リスナーから見るギタリストらしさとメンバーから見るギタリストらしさも違うし、人それぞれの印象で変わるということですよね。


ただ間違っても一番悲しいのは「ギタリストぶる」という振る舞いかただと思うので、自分がやっていることはギタリストらしさの範疇にきちんと収まっているか、定期的に顧みたいと思っています。




【30歳】

人の気持ちや意見などというものは随分いい加減なもので、昨日までYESと言っていたことを今日から突然NOと言いだしたりする。
明日には変わっているかもしれないものを、いったいどうやって愛せばいいというのか。

愛はそもそも「不変」を大前提としている。この「不変」というのが厄介で、どっちの立場から不変を語っているのかによって様子が大きく変わる。

僕があなたを愛する気持ちは変わりませんと誓うのは、わかりやすいし潔いしベタっちゃベタだが、いずれにしても何かを愛したいと願う人間にとって必要最低限のマナーのようなものだ。
しかし何かを愛する理由が、その対象が不変だから=自分を愛してくれるという大前提があってそれが崩れることがないという保険を感じているから、だから自分もあなたを愛しますよ。そんな風に語ると打算的に聞こえるものだし、愛と打算は不協和音を奏でる。

いや、まてよ。本当にそうか?本当に愛と打算は不協和音なのか?なにかを前提としないことが愛の条件だというのなら、恋は成就しなければしないほどいいってややこしいことになる。きっと前提そのものは必要で、それはたとえばキミがそばにいてくれることとか、僕たちがとにもかくにも生きていることとかそういう類のものであるべきで、一か月にさんまんえんくれることとかではない。要するに前提とされることがらの内容次第ってことか。

そんな風に物事を考える場合、ギターは月にさんまんえんくれないかもしれないけど、そのかわりいつもそばにいてくれるし、それどころかこっちが頑張ればそのぶん音で答えてくれることすらも時々あって、それだけでギターを愛する理由としては十分すぎるほどだ。



ギタリストには二種類いる。
ギターそのものが好きなタイプと、ギターを弾いている自分が好きなタイプ。
そんなことも巷ではよく言われる。

人生の3分の2以上をギターと共に過ごしてきた現役ギタリストの立場からそれについてコメントさせてもらうと、楽しくギター弾ければどっちでもいいじゃん。そんなの。ってことになる。

確かに、タイプによって奏でる音は異なる。
そりゃギターの中に張り巡らされている電気回路の抵抗の値について語れるような人と、Ωなんて中学理科でギブアップした俺みたいなのが同じ土俵で語れるわけないし、そんな二人が演奏するギターが全く異なるものになるのは当たり前の話だ。仮に全く同じ機材を全く同じセッティングで弾き比べても、ふたりの出す音は違うだろう。


思うに、ギタリストらしさって、それっす。
自分のスタイルを持っていること。


そのスタイルはどんなにささやかなものでもいい。もはや他人の真似事ですらあっても構わない。大好きなギタリストがいて、そいつのことが好きで好きで仕方がないとかいうことだけでもいい。キミはそういう人なんだね!ってそれで伝わるなら、それがその人のギタリストらしさになる。

逆に、ギタリストぶってる奴というのは、自分のスタイルを一切持っていない人間のことを言う。これほんと難しいんだけど、、  その人のプレイが誰かのそっくりそのままコピーでも、そこに愛があるなら=その人のプレイを聴いた人が愛を感じるのであれば、その人にはギタリスト“らしさ”があるんだけど、そうではなくてただ単に流行ってるものを何の理由もなくなんとなくなぞってるとか、言われたからその通りにハイハイ弾いてますみたいなのは、ギタリスト“らしさ”を感じることが難しい。  それがギタリスト“ぶってる”ってことになるのかは何とも言えないが、少なくともギタリスト“らしく”はないと思う。

でも、そんな奴、いるのかな?
ギターを弾きたいってことは主張したい何かを持ってるってことと同義だから、そういうのがない人は何かのきっかけでギターを始めたとしてもいずれ辞めていくから、今この時点でギターを弾いている人はみんなギタリストだしギタリスト“らしい”ってことに、なるんじゃないか。



先日、一念発起して最近ギターを始めたんですという大人に会う機会があった。その人のプレイは、たしかに技術的には未熟だったかもしれないけど、それも込みでその人の目はギターを弾けて楽しいという気持ちで輝いてた。

ギタリストらしさって、やっぱ、それかもな。その時のそいつの目がそれだよ。



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ジユンペイ
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