ギタリストらしさ【エッセイ・2023年6月】
先に断っておくと今月は構成が随分ややこしい記事になっています。
数年前のブログを引用→それを踏まえて書いたブログを引用→そこまでを含めて踏まえて書いたのが今回2023年
という構成になっています。
時系列的には
26歳→27歳→30歳
の順に書いた文章、ということになります。
ギタリストが「ギタリスト」についてどんなことを考えるのか、それは年齢と共にどのように変化するのか。そんな目線で読んでもらえたら、嬉しいです。
【26歳】
【27歳】
らしさとは何か、最近そんなことをよく考えていたので、ふと思い出して。
○○らしく振る舞うことと、○○ぶることは、似ているが大きく違う。
彼氏らしい振る舞いをすることは、彼氏面をすることとは違いますね。
僕はそういった意味で「らしさ」は大事だと思っていて、たとえば恋愛でも割とベタなサプライズやらは、やりたいタイプ。
それはデレデレするということではなくて、好きで居続ける(あるいは好きでいてもらい続ける)努力として必要なものだと思うのです。
どれだけサバサバな関係だとしても、年に一回くらいはドベタなことしないと、維持できないと思います。
ドライな言いかたをすれば恋人なんてものは所詮あかの他人なので(彼女がこの記事読んでいないことを心から希望する)、ツーカーだの、心で通じ合っていればわかるだの、そんな理屈はお門違いってもんです。この記事を読んでくれているあなたとこれを書いている僕とが、文章という言葉を共有してようやく繋がっているのと同じように。
だから、恋人らしさ、恋人っぽいこと、ベタな演出、などは大事です。
で、付き合っても無いのにそれらを押し付けると「恋人ぶってる」「彼氏面してる」となります。
なので、相手がいるぶん、恋愛において「らしく、ぶらず」は割とわかりやすいです。
ところが個人だと突然難しくなる。
よく言いますが自分らしさって何でしょう。本当の自分って何でしょう。
そんなもんいるのか?本当の自分を考える時、「本当じゃない自分」が存在しないと理屈として成立しないけれども、本当じゃない自分なんてどこ探してもいません。「本音ではない行動をしている自分」とかはいるだろうけど、そういう行動をしている自分は自分なのだから、本音じゃないとしても残念ながらそれも本当の自分です。
逆に「自分ぶる」って何でしょう。そんなことする人いるのか?
○○ぶるっていうのは、本当はそうじゃないけどあたかもそうであるかのように偽ることだったりするので、自分ぶる人はいないし、自分ぶる人がいない=自分は常に本当の自分=本当じゃない自分は存在しない=自分らしさを考えることに意味はない、と結論付けられそうです。
ギタリストらしさって何でしょう。ギタリストらしい振る舞いって何でしょう。
同じように個人の目線で考えても意味はないという結論になるのでやはり相手が必要です。
その相手というのは関係性によって変わるもので、リスナーから見るギタリストらしさとメンバーから見るギタリストらしさも違うし、人それぞれの印象で変わるということですよね。
ただ間違っても一番悲しいのは「ギタリストぶる」という振る舞いかただと思うので、自分がやっていることはギタリストらしさの範疇にきちんと収まっているか、定期的に顧みたいと思っています。
【30歳】
人の気持ちや意見などというものは随分いい加減なもので、昨日までYESと言っていたことを今日から突然NOと言いだしたりする。
明日には変わっているかもしれないものを、いったいどうやって愛せばいいというのか。
愛はそもそも「不変」を大前提としている。この「不変」というのが厄介で、どっちの立場から不変を語っているのかによって様子が大きく変わる。
僕があなたを愛する気持ちは変わりませんと誓うのは、わかりやすいし潔いしベタっちゃベタだが、いずれにしても何かを愛したいと願う人間にとって必要最低限のマナーのようなものだ。
しかし何かを愛する理由が、その対象が不変だから=自分を愛してくれるという大前提があってそれが崩れることがないという保険を感じているから、だから自分もあなたを愛しますよ。そんな風に語ると打算的に聞こえるものだし、愛と打算は不協和音を奏でる。
いや、まてよ。本当にそうか?本当に愛と打算は不協和音なのか?なにかを前提としないことが愛の条件だというのなら、恋は成就しなければしないほどいいってややこしいことになる。きっと前提そのものは必要で、それはたとえばキミがそばにいてくれることとか、僕たちがとにもかくにも生きていることとかそういう類のものであるべきで、一か月にさんまんえんくれることとかではない。要するに前提とされることがらの内容次第ってことか。
そんな風に物事を考える場合、ギターは月にさんまんえんくれないかもしれないけど、そのかわりいつもそばにいてくれるし、それどころかこっちが頑張ればそのぶん音で答えてくれることすらも時々あって、それだけでギターを愛する理由としては十分すぎるほどだ。
ギタリストには二種類いる。
ギターそのものが好きなタイプと、ギターを弾いている自分が好きなタイプ。
そんなことも巷ではよく言われる。
人生の3分の2以上をギターと共に過ごしてきた現役ギタリストの立場からそれについてコメントさせてもらうと、楽しくギター弾ければどっちでもいいじゃん。そんなの。ってことになる。
確かに、タイプによって奏でる音は異なる。
そりゃギターの中に張り巡らされている電気回路の抵抗の値について語れるような人と、Ωなんて中学理科でギブアップした俺みたいなのが同じ土俵で語れるわけないし、そんな二人が演奏するギターが全く異なるものになるのは当たり前の話だ。仮に全く同じ機材を全く同じセッティングで弾き比べても、ふたりの出す音は違うだろう。
思うに、ギタリストらしさって、それっす。
自分のスタイルを持っていること。
そのスタイルはどんなにささやかなものでもいい。もはや他人の真似事ですらあっても構わない。大好きなギタリストがいて、そいつのことが好きで好きで仕方がないとかいうことだけでもいい。キミはそういう人なんだね!ってそれで伝わるなら、それがその人のギタリストらしさになる。
逆に、ギタリストぶってる奴というのは、自分のスタイルを一切持っていない人間のことを言う。これほんと難しいんだけど、、 その人のプレイが誰かのそっくりそのままコピーでも、そこに愛があるなら=その人のプレイを聴いた人が愛を感じるのであれば、その人にはギタリスト“らしさ”があるんだけど、そうではなくてただ単に流行ってるものを何の理由もなくなんとなくなぞってるとか、言われたからその通りにハイハイ弾いてますみたいなのは、ギタリスト“らしさ”を感じることが難しい。 それがギタリスト“ぶってる”ってことになるのかは何とも言えないが、少なくともギタリスト“らしく”はないと思う。
でも、そんな奴、いるのかな?
ギターを弾きたいってことは主張したい何かを持ってるってことと同義だから、そういうのがない人は何かのきっかけでギターを始めたとしてもいずれ辞めていくから、今この時点でギターを弾いている人はみんなギタリストだしギタリスト“らしい”ってことに、なるんじゃないか。
先日、一念発起して最近ギターを始めたんですという大人に会う機会があった。その人のプレイは、たしかに技術的には未熟だったかもしれないけど、それも込みでその人の目はギターを弾けて楽しいという気持ちで輝いてた。
ギタリストらしさって、やっぱ、それかもな。その時のそいつの目がそれだよ。