春と蜘蛛【エッセイ・2023年5月】
蜘蛛を見かけると、春がやってきたことを実感する。冬以外なら年中どこにでも蜘蛛はいるのだろうが、勝手に季語を作っていいのなら僕の中で蜘蛛は春だ。蜩が夏の音だったり金木犀が秋の香りだったりするのと同じように、蜘蛛は春の使者だ。
特に春にしか見かけない蜘蛛がいる。車の中で見かける蜘蛛だ。それが何という種類なのか知らないけれど、とにかく小さくて、春に車の中以外で見かけることがない不思議な蜘蛛。窓を開けたり洗車しているタイミングでどこからともなく入ってくるのだろう。たいてい、毎年梅雨の足音が聞こえ始めるといつのまにかいなくなっている。
その小さな蜘蛛が、車の中に巣(?)を張ることがある。というよりは、巣を張ろうと試みた形跡(??)を見かけることがあるといったほうが正確だった。試みたものの出来なかったのか、気が変わって作業を辞めたのかはわからないが、エアコンの送風口とかサイドブレーキの付け根とか、そういう絶妙な場所に蜘蛛の糸がぶらり垂れ下がっている。
蜘蛛の生存戦略は「罠」だ。仕掛けた網に獲物が掛かるのを待つ。一見すると受動的にも思える戦略だけれど、実際には網を掛ける場所を選ぶセンスがきっと重要で、そうなると蜘蛛たちの間で場所取り合戦なんかも起こるのだろうから、むしろアクティヴな生き物なのではないかと思う(もっともこれは、センター試験の生物の点数が50点台だった人間の、あまりにも説得力に欠ける想像だけど)。
そう考えると車の中にやってくる蜘蛛は場所取りに負けたのか、それとも前人未到の地を行く開拓者なのか。後者ならなかなかカッコいいけど、毎春見かけるってことはきっと前者なのだろう。今年もダメでしたか。お疲れ様です。そしてその車の中に仕掛けた罠さえもウェットティッシュできれいさっぱり掃除されてしまうのだから、蜘蛛もいよいよ浮かばれない。
蜘蛛が巣を張るのにどのくらいの体力を使うものかわからないけど、きっと成功している蜘蛛たちは誰よりもたくさんの巣を張ってきて、誰よりもたくさん失敗してきたんだと思う。せっかく手に入れた縄張りやせっかく建設した巣を手放すのは勇気が要ることなんだろうけど、その勇気を持ってる蜘蛛が生き残るんだろう。弱肉強食の世界をサバイヴできるような蜘蛛は、美しい巣をつくることや、自分の納得の行く巣作りなんてこだわっていられない。狩猟に特化したデザインへ研ぎ澄まされて行って、その結果としての不気味さの象徴なのなら、どこか納得の行くようなところがある。
つくることと発表することは全く次元の違う世界の話だということを、蜘蛛を見ながら実感する。