音楽の履歴書【弦人茫洋・2月号】
1 小学校低学年期 ~サザンオールスターズ~
記憶にあるなかで最も古い音楽体験は、サザンオールスターズの「TSUNAMI」。2000年リリースの曲なので俺が小学校2年生当時の曲だ。その頃、俺には好きな女の子がいた。好きと言ったって小学校2年の恋など高が知れてるが、とにかく好きだった。意味や目的のようなものを持たない幼い恋だったのだろうけど(そういう意味では大人になった今の恋も大して変わらないけど)、クラスで会うと妙に緊張したりしていた。
そんな中、車の中で親がよくかけていたのが「TSUNAMI」で、サビの歌詞がずんずん入ってきて強く心に響いた。「見つめ合うと素直にお喋りできない」というフレーズが、自分のことを知っていて書かれたように感じるほど共感して、気づけばその子というよりも「TSUNAMI」の虜になっていた。。。サザンのファンになるには小学校2年という年齢はあまりにも幼すぎたのでしょう。このTSUNAMI事件以来、しばらくバスケットに没頭することになるけど、一時期は本当にハマっていて風呂でサビだけ歌ったりしてたなぁ。
2 小学校高学年 ~ポルノグラフィティ~
忘れもしない2003年10月。その日は土曜日で、市外の小学校までミニバスの練習試合の遠征に出かけていた。朝から夕方まで何試合もやってクタクタになって帰宅すると、テレビで流れていたのは「鋼の錬金術師」というアニメ。たまたまそのオープニングを見かけたのだけど、その時の主題歌がポルノグラフィティの「メリッサ」でした。そのサビのメロディといい、曲の雰囲気といい、それまで聴いたことのない世界がそこには広がっていて、俺は完全にメリッサにドはまりしました。その後12月の誕生日にシングルのCDを買ってもらって聴いたら、思っていたよりも長いことにまずビックリ!まぁ、当たり前なのですが、、、それまでは録画したアニメのオープニングをテレビで流して曲を覚えていたから、テレビサイズにカットされた音源しか知らなかったわけです。それを本家の曲と思い込んでいたので、2倍以上の長さが収録されているCDを聴いてとても得した気分になっていました。笑
そのCDにおいて、テレビではカットされていて尚かつ俺のこころを鷲掴みにし今でも離さない要素があります。「ギターソロ」です。あれを聴く機会がなかったら、俺がギターを手にすることはなかったし、間違っても後にインディーズの世界に飛び込もうなどと思うことも無かったでしょう。歪んだエレキギターのヒステリックな高音が、キュイーン!と気持ちよく伸びていくあの感じが、本当に衝撃的だった。そのサウンド感が、レスポールギター×マーシャルアンプというザッツな王道ロックンロールだったことも、後の俺をロックの世界へ誘う一つの要因ではあったのでしょう。もちろん当時はそんなこと知る由もありませんでしたが。ジユンペイは単純かつ素直な性格なので、最初に知ったものを王道と認識する習性があります。もっとひねくれてたら、その後に歩む音楽人生もかなり様子が違ったのでしょうけど。
3 中学時代 ~ケータイよりギター~
中学に入ると、身の回りには少しずつケータイを手にする友達が増えてきた。いわゆる「ガラケー」の時代です。写メとか、絵文字とか、ワンセグとか、着うたとか、その辺の時代。スライド式の端末が少しずつダサくなっていって、二つ折り方式が市民権を獲得しだしたころです。ありとあらゆる友人たちが誕生日やクリスマスにP905iや何かをねだっている中、俺だけ通販のやっすいレスポールをおねだりしては却下されまくっていました。
そもそも、その当時は父親のおさがりのアコースティックギターを使わせてもらっていて、レッスンに通うことも無く日々独学でギターを弾く毎日でした。それに加え、もう15年近く前の話だし、俺の地元はそれなりにかなりの田舎なので、当時はまだ「エレキギター=不良少年」という図式が当たり前に蔓延っている環境でした。レスポール買ってくれなかったのはそういった要素もあったのでしょう。自分の小遣いで買うと言ってもNGだったなぁ。ちなみに、なぜか「アコギ=善良な青少年」のイメージが漂っていたことも事実です。というわけで中学3年間はMorrisのアコギでひたすらポルノを弾きまくる生活になったのでした。「善良な青少年」が弾くものとされているアコースティックギターでワルいロックをやっちゃうぜ、っつって。
4 エレキギターを手にするまで
細かいことを言うと、この話は中学3年の末から始まります。高校の入学祝(というか高校受験の合格祝)として、祖父にエレキギターを買ってもらうことになりました。自分からねだった記憶がないので何故そんな話になったのか覚えてないけれど、おさがりのアコギでガシガシロックの練習をする俺を見るに見かねての優しさだったのかな。先に書いた通り、当時はまだ「エレキギター=不良少年」な色眼鏡が少なからずあったので、エレキを手に入れることはほぼ不可能に近かった。そんな中で祖父がエレキギターを買ってくれたことは間違いなく自分の転機になっているし、もしもあの時ギターを買ってもらっていなかったら、今の人生も絶対に随分違ったものになっていたはずです。
祖父は何事によらず、いわゆる本物志向な人で、きちんとしたものを本場で体感することに価値があると考える人だった。その価値観を俺も色濃く受け継いでいるが、まだ身の丈にあっていないので、俺ごときじゃせいぜい、ただ形から入ってるだけの兄ちゃんってとこだろう。祖父は楽器には詳しくなかったけれど色々と調べてくれて、御茶ノ水のクロサワ楽器に連れて行ってくれた。当時は高速バスも無かったから、木更津から東京まで行くのに電車で何時間かかったんだろう。ちょっとした旅行気分でウキウキしながら一緒に御茶ノ水まで行ったなぁ。。。地元にも楽器屋がなかったわけじゃないんだけど、CDショップの隅に安いギターやベースが何本か飾られているくらいのものだったから、中央線を降りた当時の俺は完全にノックアウト状態。360度楽器が立ち並ぶあの街に、まさしく選り取り見取り深緑と言われて立ち竦んでしまった。
当時からポルノグラフィティが好きだったので、「メリッサ」のPVで見ていたレスポール(という機種のギター)を買ってもらおうと思っていたのだけど、実際には店員さんが、「初心者の方ならまずは」と、テレキャス、レスポール、ストラトのいわゆる3大ギターを出してきてくれて、いろいろ弾き比べた。たしか、その時はテレキャスが一番弾きにくく感じて、ストラトが逆に一番しっくり来たんだよね。隣のブースで見るからにバンドマンな兄ちゃんがゴリゴリに試奏しているなか、たどたどしくCコードを鳴らすのが恥ずかしかった思い出がある。ネックの感じとか弾きやすさはストラトが一番良くてめちゃくちゃ悩んだんだけど、最終的には初志貫徹ということでレスポールにした。それが2008年の2月か3月のこと。それ以来2020年の4月にGibsonのレスポールを手に入れるまでずーっと愛用していました。もちろん、その間にメインギターが変わったことは何度もあるけど、ライブはもちろんRECでも、ここぞというときに使っていた。音が特別いいというわけじゃないけど、自分の中では最古参のギターで最も手に馴染んでいるぶん、いまだに安心感があるんです。今後、ライブで使うことはより一層減ると思うけど、たとえ将来的にギターを二度と弾けないような状況に陥ったとしても、まず間違いなく絶対に手放さない大事な一本です。
5 高校時代~ハードロックとエミネム~
さて。前置きが長くなりましたが、このエピフォンレスポールを引っ提げて市内の高校に入学した俺は、そこで実に様々な音楽と出会いました。
まず当時最もハマっていたのがエクストリーム。ポルノグラフィティのバンド名の由来になっていることでも知られる超名盤 of 名盤「Pornograffitti」をMDウォークマンに入れて毎朝爆音で聴きながら電車通学してたなぁ。それがきっかけで、深く歪んだエレキギターの音色に魅せられてハードロックやメタルにハマっていきました。Harem Scarem、Orianthi、Theory of a deadman、METALLICA、AC/DC、などなど。それに加えてパンクも沢山教わって、Green DayとかSUM41、Avril Lavigneあたりをよく聴いていました。あと人並みにYUIとかもよく聴いたし、もちろんポルノも継続的に聴いていましたよ。
少し様子が変わってきたのは高校2年から。交換留学で短期間アメリカのデトロイトにいましたが、現地の友人に教えてもらったのが「The White Stripes」と「Eminem」。これまた強烈な刺激だったわけです。
まずThe White Stripesに関しては、ジャックホワイトのヒステリックなヴォーカルと破壊的なギター、そこにメグホワイトの力強いドラムが絡んで、今さら言うまでもないことですが本当に唯一無二の世界観。一瞬で虜になりました。当時、デトロイトのモールで買ったのが「Get Behind Me Satan」というアルバムで、一曲目に「Blue Orchid」という曲があるのですが、ホストファミリーの家でそれを聴いた瞬間にもう衝撃で、その晩はホームパーティーがあったのに欠席して一晩中アルバムを聴いていたくらい(いったいぜんたい何をしにわざわざアメリカまで行ったのでしょうか)。敢えて言うならばWhite Stripesの曲って、意味わかんないんですよね。いや、意味わかんないわけがなくて、今改めて聴くとわかることや伝わってくる意味も感じるんだけど、当時高校2年生の俺には意味わからなかったです。今思えば豪快に演奏する繊細な美学とか、爆音の中にきちんと成立している秩序や様式美のようなものを教わったように思うけど、、当時はその豪快さと混沌にただただ魅かれた感じでした。
Eminemは、言わずと知れた天才ラッパーですね。たまたま俺を受け入れてくれたホストファミリーの界隈にヒップホップ好きな人が多くて、車の中なんて大体エミネムが掛かっていた。そこで「俺はラッパーになろう!」とまでは流石に思わなかったけど、リズム感を嫌というほど叩き込まれました。今思えば、あの時きちんとリズム譜の勉強でもしていれば飲み込みは違ったんでしょうが…そのことを差し引いても、後ノリのリズムや連符など、ヒップホップ特有の「ノリ」が染みついたのは間違いないですよね。Eminem以外のヒップホップだと、50 CentとかDr. Dre、Toby Mac辺りを聴いていました。
6 ブルースに開眼する大学時代
大学時代はブルースを抜きに語れません。正確には、どっぷりハマるのは大学2年以降のこと。たまたま地元のCDショップで見かけたStevie Ray Vaughn(以下、レイヴォーンと書きます)のCDを買ったことがきっかけでした。それまでの俺は、レスポールをとにかく誰よりも深く歪ませることが世の中の全てだと思っていたので、ストラトキャスターなんていう楽器はロックじゃないし邪道だぜ、くらいに感じていましたが、、、レイヴォーンを聴いて180度心変わりしました。ストラトこそロックだとか言い始めたのもこの時期です。まぁ、単純に影響されやすいんですね。笑
初めて聴いたのは「Texas Flood」。フィルインのたった3音で全て持っていかれました。穏やかなテンポに心地よくブルーノートが混ざって、まさしくテキサスの灼熱の大地を想起させる素晴らしいコードワークのあとは、マイナーペンタトニック一発で弾き倒すブルースリックの洪水。まさに”Flood”です。そのCDを買ったのが夏だったということもあって、未だにTexas Floodを聴くと、こころが汗だくになるような、俺にとって外せない一曲です。
レイヴォーンでもう一つ好きなのが「Lenny」。ギターインストの曲ですが、これはTexas Floodとは打って変わって大人の雰囲気漂うジャズコードの嵐が堪らないわけです。当時からiPODは持っていたのでこういう言いかたは変だけど、それこそ擦り切れるくらい聴いてコピーして、よく弾いてました。で、Lennyのカヴァーをサークルのライブで披露したらちょっとした話題になり、ギタリストという肩書に挑戦しようと決意してインディーズの世界に飛び込んだのでした。ギター1本だけ抱えて、都内のライブハウスの門をたたき、レイヴォーンとかジミヘンのカヴァーをしまくって一旗あげてやるぜ、って。本気で思っていました。世間知らずにも程があります。田舎出身だからっておのぼりさんすぎます。バカです。とはいえ、インディーズに飛び込んでいなかったら今の自分はいないので、今となっては素直に勘違いできるバカであれたことを、とても誇らしく思っています。
7 イマイチよくわからんインディーズ時代
当時の俺がしていたことと言えば、曲を作ってレコーディングして、CDにして、ライブハウスに持って行ってライブをして。それをただ繰り返していただけ。音楽性としてはブルースギタリストを謳っていたけど、歌ものは思いっきりポップスだったし、そもそも歌よりもギターで勝負したいのにソロのSSW(シンガーソングライター)として活動していた。頓珍漢という言葉がこれ以上当てはまる人もそう居ないでしょう。やっていることは矛盾だらけだったし、何をしたかったのか、今思い返すとイマイチよくわからない。
ただ一つ間違いないのは、めちゃめちゃ死ぬほど楽しかったってことです。今は当時と音楽を見つめる目線も違うし幾分か冷めた温度で付き合っているので、昔の自分を俯瞰して見ると当時とは全然違うコメントになるわけだけど、じゃあ今、音楽やっていて、当時ほど楽しい瞬間がどれだけあるかと言うと、即答できないのが寂しいですね。
敢えて今、当時の自分にコメントするならば、重要なことは何一つわかっていないただのアホだったということです。覚えてるのは、ポップスにだけは着地したくない、ポップなんかでありたくないと本気で思っていたこと。ブルースやロックこそがギターだと信じていたし、そういう自分でありたいと思っていた。自分で言うのも変な話ですが、その気持ちって、ちょっとわかる気はするんです。ポップが出来ない自分を、ポップでありたくない自分にすり替えていただけのことなのですが。
若い頃はそんな感じで、何か自分だけの武器を探してもがいていた気がします。
そんな僕を応援してくれた人々や、文句も言わずについてきてくれてブッキングや事務仕事の一切を引き受けてくれた当時のマネージャーから頂いたご恩は、死ぬまで一生忘れません。
おわりに
今となっては仕事柄ありとあらゆるジャンルの音楽を聴くし、むしろ自ら積極的に開拓しているタイプなので「音楽の履歴書」として書くことができるのはこのあたりまでなんだけど、逆に言うとこの頃までに聴いてきた音楽が自分の音楽的な軸の根幹をなしていることは間違いないと思います。
そう考えると音楽との出会いもやっぱり一期一会。日々やってくるたくさんの音楽との出会いをひとつひとつ大切にしたいですし、自分が作る音楽についても同じようにこころを込めて仕事したいと改めて思いました。