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自由【エッセイ・弦人茫洋2021年5月号】


 ジャムセッション。いわゆる即興演奏。事前に軽く打ち合わせがある場合もあれば、何の用意もなく突然ゲリラ的に始まることもある。個人的には後者のほうが好きだ。key何にします?とか言ってる暇があるなら、弾いちゃったほうが早いから。
 音楽全般に言えることだけど、大原則としてそこにルールはない。感じたまま、思ったままに表現すればそれでOK。基本的には。
 ところが、表現である以上それはコミュニケーティヴであるべきなので、相手がどう受け取るかを勘定に入れずに演奏するのはよくない。とんでもない不協和音を「これが俺の音楽なんだ」とまっすぐ演奏するのも悪くないが、それがどのような感想を相手に与えうるかを考えているかどうか、そこのところは、かなり重要なポイントである。そういった意味では、やはり音楽にもある程度のルールや暗黙の了解のようなものは存在する。
 ましてジャムセッションなら尚更である。事前に用意をしていないからこそ、いかに音楽として成立させるかが、即興の醍醐味になるのだ。何を弾くかよりも、どのようにまとめるかのほうが重要なのだ。それは「形式」という考え方と、切っても切れない関係性でもある。

 わかりやすくブルースセッションを例にとると、多くの場合3コードの12バー形式が用いられる。導入・展開・オチをそれぞれ4小節で表現し、12小節でひとつの塊になっている。これをひたすら繰り返し、メンバー間でソロ演奏をまわしていく。
 この3コード12バーという形式は概ね参加者の頭の中にはあるものだけれど、それをどのように進めていくかは決まっていない。アップテンポなロックンロールスタイルにするのかスローブルースにするのか。3コードのkeyはどうするのか。調はメジャーかマイナーか。リズムの刻み方はどうするのか。コードの刻み方はどうするのか。キメのフレーズはどうするか。これらを事前に打ち合わせて決めておいてもいいが、それではもはや即興演奏と呼べない。やはり、前もって決めることなく突然始めるからこそ意味があるものだと思う。

 これが出来るようになる為に最も必要なのは傾聴力である。相手がどのような演奏をしているのかを丁寧に聴くこと。そのうえでの理解力や演奏能力も必要になるが、そもそも聴きとることが出来なければ理解も演奏も役に立たないので、一番大事なのは傾聴なのである。


 ジャムセッションの経験がない方にもわかりやすく言い換えると、世間話も同じような構造だと思われる。誰か一人が話題を提供して、それについてコメントし、自分のエピソードを話す。また別の誰かが同じようにコメントして自分の話をして・・・とラリーが続くのが一般的だが、このとき参加者は無意識に相手の話を傾聴している。注意深く発言を聴きとっているからこそ、会話が成立する。

 これが、もし誰も人の話を傾聴しないグループだと、たとえば以下のような事態になる。

A「このまえ新宿にできた新しいラーメン屋にいったんだけどさ~」
B「あー!猫飼いてえ!」
C「そういえば最近の大谷マジですごいよなぁ」
A「いやいや、だからラーメン屋に行ってね、」
D「ばかうけってなんでばかうけって名前なんだろう」
C「メジャーの歴史すら塗り替える勢いだよ、本当に」
etc…

会話というよりも、もはや独り言集団である。

 こんな雑談をする人はいないはずなのだけど、ジャムセッションだと得てしてそういう事態が起こりがちだ。そういう演奏は、傍から見ると、人の話を聴かない、空気の読めない演奏という風に映る。もしもそのセッションが気持ちよかったなら、他のメンバーが合わせてくれているということになる。会話で喩えるとこんな風に。

A「このまえ新宿にできた新しいラーメン屋にいったんだけどさ~」
B「ああ、あそこの店ね!うんうん、それで?」
A「煮干しの出汁がきいてて、めっちゃくちゃ美味いよ!」
C「へ~そうなんだ!煮干しっていうと同じ新宿の○○って店も有名だけど、どっちがうまい?」
D「橋本環奈かわいい!!!!!」
一同「わかるわ~~~」
D「本当、天使みたいにかわいい!たまらん!」
一同「めっちゃわかりみ~」
etc…

 上手い人とセッションすると自分もうまくなった気になるのは、上記のようなからくりである。


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「太鼓の達人」というゲームがある。有名なゲームなのでご存知の方も多いと思うが敢えて説明すると、音楽に合わせてタイミングよく太鼓を叩くゲームだ。
「太鼓の達人」が画期的だったのは、未来の時間を視認できる点にある。比較として例えばカラオケは、歌うタイミングに合わせて歌詞が塗りつぶされていく。これも時間の視認には違いない。
カラオケと「太鼓の達人」の違いは、時間がどちらに向かって流れていくか、にある。

カラオケの歌詞は、予め表示されたものが左から右へ塗りつぶされていく。今歌った箇所(あるいは歌うべきだった箇所)が経過していく、つまり現在を過去に流していく表示だ。
一方、「太鼓の達人」は、これから叩くべき箇所が右から左へ流れてくる。つまり未来が現在へやってくる見せ方である。聴かなければ何が起こるかわからないのが音楽だとしたら、これからどうすればいいか予め知ることができるという意味で、「太鼓の達人」は画期的だったのだ。

 時間は、本当に「進む」ものなのだろうか。そもそも「進む」ためには、どちらが前でどちらが後ろかわからないといけない。つまり「方向」がないと進むことも戻ることも出来ない。ただそこにいるだけ。一般的には未来を前、過去を後ろと捉えるから、時間は何となく進んでいくものだと思っているだけかもしれない。過去とは、自分が経験してきた記憶の一部あるいは全部である。未来とは、これから起こりうる物事の可能性である。現在とは、そのどちらにも属さない何かである。そう定義すると、時間には前も後ろも無いように思えてくる。

 もしも本当に時間に前後が存在しないなら、前世や来世があると仮定した場合、自分が生まれ変わる可能性のある対象は数えきれないほど沢山あることになる。時間に前後が存在しないのだから、過去の人物に生まれ変わることもあるだろう。もちろん未来の誰かに生まれ変わることも。そして、もしかしたら、現在の自分自身に生まれ変わることも、あるのかもしれない。実は、同じ人生を、何度も、ループしているのかもしれない。死後、何が起きるかを示すことが出来る人はひとりもいないので、死後の世界については科学や常識みたいなものを超えた想像をするほうがむしろ自然な考え方ってもんだろう。
 実はこの世界の全ては自分が作り上げた空想の世界で、実際の世界には誰一人存在していなかったらどうしようと思ったことがある。仲間と抱き合って喜びや愛を分かち合っても、その表情さえもが空想だったらどうしよう。それを否定できないことが恐ろしい、と。高校生くらいの頃にそんなことを考えた。あまり深入りすると「水槽の脳」みたいなオカルト話になるのでこの辺で切り上げるが、時間という一つの制約、あるいは形式のようなものが、全く存在しない世界を想像すると(そしてそれが事実だと信じ込んでしまうと)、自分が自分の意志で生きているという事実がそもそも矛盾するので、時間は確かに存在するし、流れのあるものである、ということにしておいたほうがよさそうだ。


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 自由とは、制約や形式から解放されることではない。むしろその中で如何にクリエイティブであるか、ということにある。ジャムセッションでは、keyを無視した不協和音を思いのままに演奏することが自由ではない。時間には方向がないのだからといっていつまでも過去に浸っていることが自由ではない。本当はkey=Eが得意だけれど相手に合わせてkey=Dで如何に自分を出すか。過去から未来へ向かって流れる時間の中で、以下に自分の将来をデザインするか。自由とは、そういった姿勢に宿るものだ。与えられた条件や他者と共有する環境の中で、以下に自己実現するか。

 様々なリアクションを選択することが出来る。たとえば本当はkey=Eで弾きたいのにkey=Dでセッションが始まってしまったとき。

①無視してkey=Eで弾く
②仕方なくDで弾く
③DをEに転調できるよう、メンバーを巻き込む
④なにも弾かない

 個人的には③を常に選択し続けられる強さを持ちたいが、実際のところどうだろう。②が一番多いのかもしれない。それを続けているうちにストレスがたまると①という暴挙に出る。その結果メンバーから疎まれたら、もう、④か、セッションを辞めるか、どちらかしか選択の余地はなくなってしまう。

 空虚な大型連休が始まった。敢えて言うなら、今の社会は①に染まりつつある。④に突入して手遅れになる前に、せめて②、できれば③に戻りたいと思っているけれど、皆さんはどうだろうか。


ジュンペイ

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ジユンペイ
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