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ギタリストの本質とは何か、イセエビを食べながら考えた話
先日、イセエビを頂きました。
千葉県産のイセエビだったそうです。
千葉なのに伊勢とはこれ如何にと狐につままれたような気分にもなろうというものですが
実際、千葉県のイセエビ漁獲量は、三重県に次いで全国二位です。
(参照したデータが2019年のものなので、現在は変動しているかもしれません)
日本に住む人間だから日本人というのなら
「日本人メジャーリーガー」は存在しないことになります。
伊勢のエビだからイセエビというのであれば
僕が食べたあれは、いったい何だったのでしょうか。
まぁイセエビなんですけれども。
プリプリの身に濃厚なミソがあいまって非常に美味しかったです。
何エビだろうと確かに美味しかったし、ましてそのエビの出身地なんて味に関係ないです。
エビ本人はどんな気持ちなのでしょうか。
自分たちのことイセエビと認識してるものなのでしょうか。
エビ界の王者くらいのことは自認しているかもしれないけど、伊勢という地域性にはこだわりもなさそうに思えます。エビの世界にも都道府県という概念があるのなら話は変わってきますけれど。
イセエビがイセエビになるのは水揚げされた後の話であって、彼らはその生命の大半を「エビ」として生きているのでしょう。
そう考えると、
イセエビの本質は「水揚げされること」もしくは「人間に認知されること」ということになり、それはエビとしての性質というよりもイセエビというブランドの本質なのかもしれない。であるならば千葉県産のイセエビは成り立ちます。
同じように考えると
ギタリストがギタリストであるのはギターを弾くからこそのことであって、イセエビを食べているとき僕はギタリストではありません。
それは簡単な話なのですが、ややこしいのは「曲を作っているとき」。
ギタリストの本質が「ギターを弾くこと」なのであれば、ギターを弾かなければ曲が作れないのなら曲を作っているときもギタリストであるということになりますが
ギターを弾かなくとも曲を作ることはできる(むしろそのほうが多い)し、ギターをいっさい触らずに曲を作る場合もあるでしょう。
その場合、曲を作っているときはギタリストではないということになりますが、そもそも何のために曲を作っているかというとギターを弾くためであったりとかライブをするためであったりとか。広い意味で「ギタリストであり続けるため」と言うことができます。
ギタリストであり続けるために、ギタリストの本質ではないことをしているとなると矛盾するので、「曲を作っているときは、たとえその過程でギターを弾かないのだとしてもギタリストである」と言えます。
じゃあギタリストの本質ってなんですか?と問われたら、「ギターを弾くこと」では間違いとは言わずとも不十分である可能性があります。
極端な話をしますと、たとえばギターを弾かなくても、パソコンのソフトでギターの音を打ち込むことはできて、そこにその人のその人らしいサウンドが鳴っているのであればそれはギタリストということになりそうです。
つまり怪我など何らかの事情でギターを手で持って演奏するということが物理的に不可能な状態に陥ったとしても、その人はギタリストであり続けることができるということです。
そう考えると素敵な話に思えませんか?
改めて考えると、ギタリストの本質は、「ギターを愛する心(を持っていること)である」というようなことが言えそうです。
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