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公と私【エッセイ・弦人茫洋2021年11月号】


10月は慌ただしい月だった。

「台風に始まり、衆院解散総選挙で終わった」と書けば、月日が経ってからこれを読む方にも、2021年の10月がどの程度慌ただしかったのかは伝わると思う。


とは言いつつも、その割にニュースは穏やかなものだった気がする。報道される内容が日々目まぐるしく変わるというようなことはなく、特にワイドショーなんかはひとつの話題で何週間も引っ張っていた。

小室圭さんの結婚についてだ。

ことの顛末や視聴者の関心事はワイドショーやらがさんざん伝えてくれているので私ごときがここでわざわざ書くようなこともないだろう。それでも導入でこの話題を選んだのは、最近気になっている問題と関連づくように思うからだ。

今月のテーマは、「公と私」について。


様々な意見の人がいる。あくまでもこれは個人的見解に過ぎないが、私としては人が結婚するということはきわめてプライベートな話題だと思っている。式まで開いてわざわざ披露するのだからある程度は公の話題だ、などと面白いことを言う人も聞いたことがあるが、結婚式や披露宴はお世話になった人への報告という意味合いで本人の好きで開催するものなので、やはりプライベートなものであるというのが私の意見だ。

たとえ当事者が公人であっても、である。そして私は他人のプライベートに興味がない。

ここまでを踏まえると、私は小室圭さんの結婚について特に何とも思わない、という結論になる。これはわかりやすいし、同じような意見の方も少なくないのではないかと思う。



ではこのケースはどうだろう。ポルノグラフィティのギタリスト・新藤晴一さんが離婚を発表したと、ニュースで取り上げられた。

ファンからは、変わらずに応援し続けますというコメントが多く寄せられていた。私もポルノグラフィティファンであり、同感である。というよりも、ポルノグラフィティが「公」であるのに対し氏の離婚というのは「私」なので、彼のプライベートで起きた出来事が、私のポルノグラフィティを応援する気持ちに影響を持ちようがないといったほうが近いかもしれない。

これも、そこまで難しい話ではないと思う。



ところが世間一般の反応は真逆で、著名人のプライベートに何らかの変化が起こると必ず話題になる。話題になるということは関心を持つ人が多いということである。その手の類に興味がない私のほうが少数派なのだということも理解しているつもりだ。ただこういった話題の是非は数の論理で決めるべきではないだろうとも思う。



公私の境目がなくなると何が起きるのか。たまたま最近読んでいたカズオ・イシグロの『日の名残り』という小説にそれを考えるヒントがあるように思う。

物語の舞台は20世紀中盤のイギリスで、主人公は屋敷に使える執事のスティーブンス。彼は執事として品格の何たるかを自らに問い続けるが、そのあまり恋や愛情といった人間的な感情が欠落し半ば機械的な人間になってしまう。晩年そのことに気が付き涙を流すというストーリーだ。

『日の名残り』が日本人の間で人気なのは、品格を問うスティーブンスの生き様が日本古来の滅私奉公のような文化と呼応する部分が少なくないからではないか、と思う。自己犠牲と利他の精神は日本に根付く美徳の一つだ。学校教育やそれ以外の場面(アニメや漫画などのコンテンツ)でも、そうした道徳観を訴える描写が多かったように思う。


私が幼いころ「ポケットモンスター」というアニメが放送され、社会現象になった。当然、私もポケモンに夢中になった一人であり、ポケモン世代のど真ん中である。劇場版のポケモンで「ミュウツーの逆襲」という作品がある。人工的につくられたミュウツーという戦闘能力に特化したポケモンが、私欲のためにポケモンを利用する人間に失望し、通常よりも強いコピーポケモンを生成して人類に反撃を企てるというストーリーだ。主人公のサトシは心優しいポケモントレーナーで、人間とポケモンは分かり合えるのだとミュウツーに説を試みるが、そのシーンが衝撃的でいまだによく覚えている。


サトシがポケモン vs コピーポケモンの争いに割って入り、体を張って止めようとするのだ。

ポケモンの攻撃をもろに受けたサトシは石化し、その光景を見たポケモンたちの目からあふれた涙がサトシを蘇生するという壮絶なシーンである。


この時のサトシの行動はまさしく自己犠牲と利他の精神だ。子供向けのアニメにとどまらない深いテーマ設定がウケて、大人のアニメファンも多い名作の一つである。近年復刻版が公開されたことも話題になった。

件のシーンについて当時の私は今一つ理解できなかった。不謹慎かもしれないが、人間&ポケモンのチームがミュウツー&コピーポケモンのチームをコテンパンに叩きのめして圧勝するものだと思っていた。ところが、サトシが割って入ったことで争いが中断し両者共存の結末となったのだ。勝者と敗者が明確に分かれなかったこともそうだが、人間が体を張って争いを止めたこと、いや、むしろ体を張ったからこそ争いが止まったということに違和感を抱いたことを覚えている。争いを止めるためには誰かが身をなげうって犠牲にならなければならないのか?普段からポケモン同士を戦わせ、その頂点である「ポケモンマスター」を目指すサトシが、ポケモン同士戦うのはよくないと言い出したのも不思議だった。我ながら、当時の私は冷めた嫌なガキだったと思う。


一方で、サトシのシーンが映画の見どころであり重要なポイントだということも今は理解できるし、そのシーンで感動した人が多いからこそ不朽の名作なのだという意見もごもっともだろう。

それは、裏を返せばサトシの滅私奉公に日本人が感動したこと、「私」を排除し「公」に徹したサトシになにがしかの美学を感じたことの表れでもある。



話がずいぶん脱線してしまったので元に戻す。


敢えて言うならば、現代の日本人が公人に要求していることは「私」を排除することではなく、「私」の「“公”化」に近いのではないかという気がする。だとすればプライベート度合いが高い話題ほどパブリックになったときに(良くも悪くも)話題になる。

これは、スマートフォンの普及でネットに常時接続が可能になり気軽に生配信で収入を手に入れられる時代になったことと、決して無関係ではないだろう。生配信で収入を得る人も、実はプライベートの切り売りで成立しているパターンが少なくない。その延長線上に華やかな芸能界を透かして見ると、彼ら彼女らにも同じ理屈が通用すると勘違いしてしまうのは無理からぬことなのかもしれない。

ただいわゆる芸能人と単なる生配信主が決定的に違うのは、芸能人はプライベートの切り売りで生活しているわけではないという点にある。ミュージシャンなら音楽性、芸人なら芸、役者なら芝居と、確固たる武器がある。それが彼ら彼女らにとっての「公」であり、そこに属さないものは「私」で、ただそれだけの話だ。

ここまで3000字近く書いてきたが、こんなことは3000字も使って書くようなことではなく、少し考えればわかる当たり前の話だという気もする。ただ、そんな当たり前の話が分かりにくい世の中になっていることも事実だと思う。


公私の問題はもはや立場にかかわらず誰にでも起こりうる。立場をわきまえて発信せよなんていうのは当たり前の前提で、より重要なのは自分の軸は「公」と「私」のどちらなのかということだろう。

「私」を切り売りすることは簡単にできる。その集合体を自分にとっての「公」だとポジショニングすることもできる。代わりにその先に待っているのは執事スティーブンスのような悲惨な晩年だというだけの話だ。


何のためにどのような道を選びどこに軸を置くのかという問題は、誰にとっても他人事ではない。クリエイトを名乗る立場の人間なら、尚のことそうだろう。





==おしらせ==


このたびStudio "J" というサークルを開設いたしました!

クリエイター同士のコラボを機会創出するためのサークルです。

ジャンルを超えてコラボ捜索を楽しみたいという方向けのサークルです。

今日(2021/11/01)設立したばかりなので、詳細はおって別途記事にいたします。

もし興味があれば遊びに来てくださ~い!

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ジユンペイ
みなさまの支えのおかげで今日を生きております。いつもありがとうございます。