大人になるということ
春の足音が聞こえるような暖かい日ですね。
なんだったら寧ろ少し暑いくらいです。
久々の高速バス雑記シリーズは、花粉が猛威を振るう山道を駆け抜けるバスの車内からお届け。
モンスターがうようよ蠢いているエリアをカプセルに入って覗いてるSF映画の登場人物にでもなったような気分です。それくらい花粉飛んでる。
春にまつわる記憶はいくつかありますが、たまたま思い出したので今日は会社員時代の思い出を語ります。
入社して間もない頃、同僚の社員とアイスブレイクを目的とした3分間スピーチをする時間がありました。3分って、話をするにはなかなか長く、単なる自己紹介だけではとうてい埋められません。そのため何らかのエピソードを付け加える必要がありました。
そのエピソードの選び方に当時の僕は違和感を覚えたようです。さすがに事細かく誰がどんな話をしたなんて覚えてませんが、いわゆる「すべらない話」を披露することが暗黙の了解になっているような、そんな空気が流れていて、そういうエピソードを選ばなければいけないことが気持ち悪かったんだと思います。
さらに嫌だったのが、ぶっちゃけすべっちゃってる話にもみんな気を遣って笑っていたこと。聴き手を笑わせる研修でもしてるのなら、気を遣って笑うのもアリかと思いますが、ただ3分間雑談するだけの時間なのに無理やり笑う必要ってあるのか?と、当時の僕はプンスカしていました。「話者にとってすべってはいけない空気」が嫌だったのではなく、「チームとしてその話をオトさなければならない集団心理みたいなもの」が肌に合わなかったようです。
当時の僕は、そんな自分のことを、世間的な価値観とズレた感性を持っている人間だと思っていました。不幸中の幸いは、それが妙な選民思想に繋がらなかったことです。「自分はみんなと違う」意識はどちらかというとネガティブな方向に作用したので、悪目立ちすることを個性の発露であると勘違いする傍迷惑な若造にならずに済みました。
当時の記憶を振り返って今何を感じたかというと、やっぱり自分の価値観は偏っているとは思いませんでした。単に経験値が少なくて想像力が乏しかったから視野が狭窄していただけのことだと思います。
たとえば30歳になった今、当時と同じ課題を与えられたら、きっと僕は誰のどんな話にも笑うと思います。とってつけたことがバレバレな作り笑いでも、能面の様な無表情よりはマシだと思うからです。
それはその方がチームが和気藹々とするからではなく、必死に表現していることが相手に伝わらないことが如何に苦しいことなのか今は経験して知っているからです。
ライブで目の前の客にスマホいじられたら辛いよね。営業トークを途中でぶった斬られたら泣いちゃうよね。だったら、3分間スピーチだってわざわざ通夜のような空気にする必要はないよね。自分がそれを好きではないということは、その人にリスペクトを払わなくてもいい理由には、ならないよね。30歳のオレは24歳のぼくに、そう諭すと思います。
24歳のオレは反抗するでしょう。ちくしょう丸くなりやがってこの野郎と。彼は尖っていることでしか自分のアイデンティティは保存できないと勘違いしてるからです。つまり本当は彼だって知っていたんです、つくろう笑いでもいいからないよりはあったほうがマシだということくらい。それは社会的なマナーなんかではなく人間関係上のルールだということも。それを認めたくないから、「オトさなければいけない空気」だなんて穿った見方をしていたのでしょう。
大人になるということは、牙を失うことではなく、牙の正しい使い方とそのタイミングを習得することなのだと思います。
そんな春の雑記でした。