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期待値【弦人茫洋・12月号】

出演予定だったライブが、コロナの影響で中止になった。
これまでもそんなことは何度もあったし、正直なところ「またか」という気持ちだが、こればかりは、やっぱり何度経験しても慣れることがない。誰のせいでもないし真っ当な判断だと思うが、それでも、楽しみにしてくれていた時間を提供できなくなったことに対して、心の底から本当に申し訳ないと思う。

もちろんどんなライブに対しても大切な気持ちで臨んでいるし、差をつけていることはない。であれば、中止になったことに対して今回のライブだけ特別に無念であるということはないはずなのだけれど、どうしようもなく遣る瀬無い気持ちになるのは、今回のライブにかけていた想いがそれだけ強かったということの裏返しでもあるのかもしれない。


そう感じる原因はきっとイベント趣旨にある。今回は「いわゆる普通のライブ」ではなく、障害を持っている人々に対して就労支援を行うデイサービス施設のクリスマス会で演奏するという内容だった。以前にもnoteで何度かこのライブについて触れた。その中で「クローズドなイベントなので皆さんを呼ぶことはできない」と書いた事があるけれど、その理由は会場がその施設だったからです。施設のクリスマス会でも例えばライブハウスで演るなら一般の(=施設利用者ではない)お客さんを入れることも可能だが、今回はあくまでも施設内でおこなうレクリエーションだったので。

ややこしくて申し訳ないが、施設の性質によって特別な想いを抱いたわけではない。今回のライブは、会場はもちろんのことお客様やイベント趣旨どれをとっても自分にとって初めての体験になる場所だったので、たとえば利用者さんとのコミュニケーションの取り方などについて事前に職員の方からアドヴァイスをもらったりしていた。要するに、ライブ前にお客さんと直接会ってお話しする機会があったということ。

一般的なライブでそれはあり得ない。ゲネプロしたり会場を把握するという意味でのリハーサルはあっても、当日観に来てくれるお客様とお話しするという意味でのリハーサルは、あり得ません。それって喩えるなら「笑っていいとも」の観覧に当選して、リハーサルでタモリさんと直接話すことなんてありませんよね、という話に似ている。お客さんはナマモノであり、空気であり、イベントをつかさどる雰囲気のようなものなので、それを事前にシュミレーションすることに意味がないからです。


ただ、今回はハンディキャップを持っていることによって、そうではない人と比べると意思疎通が難しい人々がお客様だったので、接し方や話しかけ方においてどのような工夫が必要なのか事前に知っておく必要があり、リハーサル前に施設を見学させていただき、利用者さんとお話しする機会を頂いていたという点が、一般的なライブと比べて異なるところだった。

その中でみなさん本当に素敵な笑顔を見せてくれたんです。言葉でうまく表現できなくても(むしろ言葉によらない表現だったからこそ)、本番当日を楽しみにしているという気持ちがこころにビンビン伝わってきた。


そういう経験を事前にできたので、ライブにかける意気込みもひとしおだったし、それだけに今回中止になってしまったことが、本当に無念でたまりません。


誰のせいでもないというのは、裏を返せば誰のせいにすることも出来ないということでもあり、それってものすごく辛い状況です。コロナ感染者が増えたことは自分自身と関係ないはずなのに自分を責めてしまうのには、そういった背景もあるのかもしれない。誰のせいにもせずにいるくらいなら自分の責任として捉えたほうが少しは楽になれる、という。


利用者さんから本番を楽しみにしているという気持ちを感じとったなかで、「期待値」について考えた。

ビジネスの現場で「期待値コントロール」という言葉があります。聞いたことありますか?
実際に提供されたサービスや財の質が期待していたよりも低かったらリピートしてもらえない、とはいえ「質」を短期間で劇的に改善することも難しい、であるならば「期待値」をコントロールしてはどうか?という発想です。

テスト前に「全然勉強してなくてやばい」と予防線を張っておけば、たとえば同じ80点でも、何も言わずに80点をとるのに比べると「“勉強してないのにもかかわらず”80点」という箔がつく。同じことは点数が何点だろうと言える。だから予防線を張る。そんなことに似ています。


音楽の現場で、テストと同じように予防線を張る人を見た事がありません。中にはそういう人もいたけど、予防線を張るような人はそもそも音楽を仕事にしていません。なので少なくとも僕と同じ目線にいる音楽人で予防線を張ってる人はいません。

まぁ、それは解説するまでもないくらいに当たり前のことで。高級焼肉店に行って、「麻布の○○さんには負けますが…」とか言われたらその店には二度と行かないでしょう。どんなクリエイターも、ウチはウチの暖簾でやってるっていうブランドがあるから、わざわざそれを汚すような枕詞を用いることはしません。

ということは期待値は自然と高まります。

個人的に思うのは、その期待値を「超えること」が最低条件で、作品の質は期待値と実際のクオリティとの差分によって表されるのだと思います。思ってたのと違うからこそ感動するし、感動するからこそ価値が生まれる。


話は逸れますが、10月から週末だけピザ屋の宅配アルバイトを始めました。そのなかで、配達担当でもピザのカットなど簡単なキッチン業務を任されるところがあります。それまで知らなかったのですが、ピザって人間が人力でカットしてるんですね。てっきり機械で正確に切ってるものだと思ってました。

ピザを頼むときに、正確に等分されていることはデフォルトの「期待」です。バラバラだったら怒るでしょう。なんというか、その正確さが人間の手に任されていることが、僕にとってはすごく前向きな未来に思えました。


表現という世界において「正確さ」は必ずしも価値であると限りませんが、尺度として似たようなことはきっとあります。すごー-ーく雑な例で言うと、ギターのチューニングがあってることとか。それはもはや楽曲において大前提であり、どんな素晴らしいメロディやフレーズも音痴ではしようがない。かといって、いや、だからこそ、「ウチはチューニングがバッチリ合ってますよ!」って謳い文句で曲を作る人は居ない。飲食で言うならそれは「ウチは賞味期限内の食材しか使ってません!」ってどや顔で言ってるようなものなのかなと。。。


お腹をすかせて待つピザは、(限度はあるが)待てば待つほど美味しく感じたりもします。
今回キャンセルになったライブも、お客さんがどんな気持ちで楽しみにしてくれていたのかよく伝わってきているので、それが中止になった無念さって、計り知れない。僕も本当に残念な気持ちですが、お客さんはきっとその何倍も何百倍も、深く肩を落としていることと思います。


もう、こういうのは、空腹が最大の調味料になったと思ってもらうしかなく。つまりまた別の機会に楽しんでいただくほかなく。その機会を頂けたときにバッチリパフォーマンスできるように自分を鍛えておくしかなく。月並みなことしかできないのですが、それすらも出来ないようでは、、、というね。


くどいようですが、まったく同じことは他のあらゆるライブについて言えることです。ただ今回は事前にみんなの顔をみることができたからそのぶんの思い入れはもちろんあって、あの笑顔は何だったんだなんてことにならないように、楽しみにしてもらえるように、愛してもらえる音楽を提供できるように、俺はギタリストで居続けたい。

と思いました。


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ジユンペイ
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