徒然草をひもといて 5章⑱170段171段172段

 まず最初に”さしたることなくて人のがり行くことは・・”、たいした用もないのに、人のところにたづねてゆくことは”よからぬことなり”という文が来る。
164段の、”相逢うとき暫くも黙止すことなし…多くは無益のことなり”という述懐に、重なり合い、かさねがさね、こうした訪問によるお喋りが無益なこと、と、うんざりしているようである。‟人と向かいたれば,ことば多く、身もくたびれ、心もしずかならず、よろずのこと障りて時を移す、互いのため益なし。とまでいい、結局、嫌々聞いているのも悪いから、気が乗らないときは、そう、はっきり言ってしまおうではないか。と提言する。
 いつの時代でも、招かれざる客が、早々に退散せずに、いつまでも雑談に時を費やすのが好きな気楽な人もいたとみえる。ひとむかし前は、そういう招かれざる客人には、よく漫画などで、こっそり隣の部屋に、早く帰れのお呪いに、箒を逆さに立てる図などがあった。 

ところが、実はこの言いぐさ、誰にでもあてはまるかに書いていると思いきや、実はそうではないことが、続いて書かれた文でわかってくる、はなはだ勝手な感想なのである。
 というのも、続いての行は、同じ心に向かまほしく思わん人の場合は、このかぎりではない、という但し書きがある。そして、そんな人のところに行ったとき、相手が退屈していて、もう少しいてください、今日はゆっくりと。などという場合は、このかぎりではない、という文が続く。
 そして中国、魏の国の文人阮籍というひとの世に知られた逸話が登場する。詳しいことは知らないが、この人、俗人には白眼、才人には青眼で対応したという故事があるそうで、これは誰にでもあることに違いない、と法師は共感し、これという用もないのにやって来て、のんびり話していくのは”いとよし”実にいい、と歓迎する。さらに手紙でも「久しくご無沙汰いたしまして」などとだけ書いてよこしているのは、たいそう嬉しい。と書くのである。粋といえば、粋ではあるが、これ、ちとイキ過ぎではないでしょうか・・・ 


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