しあわせと切なさの花、桜
ここ数年、桜への執着が強くなっているように感じます。
すこし前までは、咲いている間に一度お花見に行くことができればそれでいいかなというくらいだったのに、今はできるだけ多く桜を瞳に写したい気持ちで足を運んでしまいます。
その理由を考えていたら、書き残しておきたくなったので記しておきます。
ひとつは桜の美しさを知ったこと。
数年前に転職した会社は、都内にしてはめずらしく駅から遠いオフィスで、なぜこんな場所にしているのだろうと不思議に思っていました。ところが半年後、春になってみてびっくり。みなさんがお花見にわざわざ来るような場所が駅からの通勤路になっていました。
朝、仕事へ向かう人しかいない時間帯。立ち止まる人はまばらで、混雑もなく、空気も清々しい。まるで日本画に描かれそうな風情ある川と桜の風景を見たあとには、満開の桜に囲まれて歩きます。そこはさらに人が少なく、わたしとぶわっと咲いた桜だけが存在しているような感覚。それはまるでなにかを祝福されているかのようで。その瞬間は、わたしにとてつもないしあわせを感じさせてくれました。桜というものをもっとも美しく感じることのできていた頃だと思います。
もうひとつは桜が大切な花になったこと。
3年前に亡くなった父が、その直前に「桜が一番好きな花」と言ったことがありました。母もわたしも父がそこまで桜が好きとは知らず、そしてそもそも花が好きなんて言葉をあまり聞いたことがなかったので、ふたりして驚いたのでした。そのときにすでに入院していた父は、生の桜を見ることは叶わないまま、2ヶ月後50代にして亡くなりました。父が見れなかった分の桜をわたしがたくさん目に焼きつけておこうとどこかで思っているような気もします。
そしてさらにもうひとつは、生まれて数ヶ月の息子と桜をはじめてみたときの空気感が忘れられないこと。
それまでの寒い日々では外出はほとんどしておらず、桜の時期になってしっかりと外に出はじめたのでした。その無垢でまだ多くを写していないその瞳に桜を写してあげたいと思い、家の近くの公園へと出かけました。まだしっかりと焦点の定まらない目で、揺れている白い何かを見つめようと懸命に見上げる様子が、強く心に残っています。夫やわたしの母と、かわるがわる抱っこをしながら、「綺麗ね」とあなたに話しかけていたあの時間。ここに父もいればよかったという声に出さない思いを胸に秘めながら、その切なさとしあわせを噛みしめた瞬間でした。
わたしが桜をみたいと強く思うようになったのは、こうした桜にまつわる大切な想い出たちが湧き上がってくるから。しあわせと切なさで胸がいっぱいになるような、こんな感覚は、桜でしか得られないのかもしれないと思います。
今年もたくさんの美しい姿を見せてくれてありがとう。また来年お会いしましょう。