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2023ヘタミュの感想
2023年4月15日、ミュージカル「ヘタリア~The Fantastic World(以下FWと表記)」を観劇してきた。
ヘタリアのミュージカル(以下ヘタミュと表記)を見に行くのはこれで3回目となる。ライブも含めるともう少しあるが、それなりに親しんできたジャンルだ。
私が今まで見たのは、2017年の「in the new world(以下NWと表記)」と2021年の「The world is wonderful(以下WWと表記)」。どちらも原作らしいコミカルさを挟みつつも、基本は史実を下地にシリアスな展開が繰り広げられる作品だ。
「ヘタリア」という作品そのものは史実やジョークを元としたギャグが基本となっているが、「ヘタミュ」は基本的に史実をダークに再現することがひとつの特徴である。よって本家とミュージカルでは、その世界観やキャラクター性が大きく異なる場面も多くある。その違いをパラレルワールドとして楽しむのもひとつの楽しみかただと、個人的には思っている。
さて、以上のことを踏まえた上で、今作について語りたい。
⚠️注意!⚠️
・「ミュージカルヘタリア The Fantastic World」のネタバレを多大に含みます。未観劇の方はご注意ください。
・検索避けとして、キャラクターの名前は非公式の人名表記や愛称を用いる、特定の単語は数字にて置き換える(92、開59など)などの対策をしています。
・筆者は「なんでも好意的に受け止めたい」人です。そのため、モヤつくところを無理やり曲解して受け止めています。
・台詞は全てうろ覚え&口調を無視したものとなっています。フィーリングで読んでください。
・乱文で読みにくいと思います。誤字脱字は私が気がついたら直すので、優しくスルーしてくだされば幸いです。
・感想はあくまで個人のものです。どうか各々観劇して感じた思いを大切になさってください。
●今までとは違う「ヘタミュ」
一度観劇して抱いた感想は、「今までとは根本的に違うヘタミュだった」というものだった。
上に記載した通り、今までのヘタミュでは史実を下地にシリアスな展開が繰り広げられることが多く、実際に起こった戦いや悲劇などを、キャラクターの個人的な感情に重ねたストーリーだった。
一方、今回のヘタミュはそこが少し異なっていた。一応史実もなぞっていたが、話の主題はそもそも史実ではなかったのだ。
普段であれば特定の事件や情勢などにフォーカスして作品を作ることが多いヘタミュだが、今作は「現代」とされている時間がどの時間軸かはっきりしない。
そしてなにより、約1800年を駆け抜けるストーリー。当然史実には穴が空きまくり、「いやそこは厳密には直結していないのでは……」という跳躍した歴史解釈まで行っている。
ストーリーがこうなった理由は何か。私は、今作「FW」が「主人公が92ではなくなる話」であったからではないかと考えている。
ヘタリアはご存じの通り、92を擬人化した作品である。よって、登場人物が92でなくなることはまずあり得ない。学ヘタなどの特殊設定でも、本人たちが92であるという意識が失われたことはない。
しかし今作において、主人公に設定されている菊は92としてはあり得ない行動を取る。それこそが、彼が「92」という役職から外れていたという証なのではないかと考えたのだ。
なぜそのような結論に至ったのか、詳しく書いていきたいと思う。
●「92」ではなく「キャラクター」としての菊
「FW」のストーリーは、92たちが祭りを開こうとするところから始まる。この祭りが何なのかは明言されない。世界規模の運動会なのか、それとも文化祭なのか。とにかく、その主催者をくじで決めることになる。
くじの結果、主催者は菊に決まった。しかし菊はその役目の重さと「菊らしい祭りにして」という他の92からの要望に押し潰され、コタツの中に引きこもってしまう。
ここまではいつものヘタミュであった。個人的に、若干菊が自信喪失気味であるのが気になったが、これはもしかしたら2回目の大戦争が終わってすぐくらいの時間軸なのかもしれないと思っていた。
しかしここから物語は大きく転換する。なんと菊はタイムスリップしてしまい、過去の世界、それもやっと西暦が始まった頃の世界まで飛ばされてしまうのである。
ここで菊が出会ったのが耀だ。既に幼い頃の菊に出会っていた耀は、大人の菊にその面影を見いだしながらも、「一から学び直したい」という菊の願いを受け入れる。
そして、耀との修行の日々の中で、菊は92として考えてはならないことを考え始める。
「このまま、誰かの言いなりになっているのもいいかもしれない」という考えだ。
恐らく、今作が引っ掛かるのはこのポイントだろう。菊が自分を見失い、独立した92として致命的な考えを持ち始める。この点が受け入れられないという人がいるのも良く分かる。
だが私は、この時点の菊が本田菊という92ではなく、本田菊という「個人」であったとしたのなら、この考えに行き着くのも分かる気がするのだ。
そもそも今回のタイムスリップは現実逃避の結果起こったものである。それも、世界の代表として企画するとか、己のアイデンティティーを確立するといった、92としては「当然やらなければいけないこと」からの逃避だ。
菊は、コタツに逃げ込んだその一瞬、「92なんてやめてしまいたい」とどこかで考えたのではないだろうか。そんなしがらみを捨てて、人間として生きてみたいとどこかで思ったのではないのだろうか。
もちろんそんなことは許されないので、菊自身は自分が92という立場を忘れているなんて微塵も思っていないのだと思う。だから最初に耀に会った時、きちんと問題点に向き合うために「原点回帰」という言葉を使ったのだ。
だが、この世界には「幼い菊」という存在がいることが明言されている。この過去において「本田菊」という92はその幼い菊が背負っているので、この世界にタイムスリップしてきてしまった菊は92であって92ではない。少なくとも今までずっと背負ってきた「本田菊」という設定からは解放されるのである。
自分が頑張らなくても、本田菊という92は動いている。
そして、目の前には大昔世話になった耀がいる。それも、今のように仲が微妙に悪い耀ではない。幼かった自分の指標であり、憧れであった頃の耀だ。
ここで注意しておきたいのが、ヘタミュにおいての極東組は、原作のようなギスギス感(?)はないということだ。ヘタミュの極東は、お互い仲良くしたかったし今でも仲良くしたいけど、結局うまくいかなかったし今も微妙な関係、というような複雑な感情が描かれることが多い。
だから何かあると昔のことを語ったり、お互いにお互いをリスペクトしているような発言が出たりする。
そう、ヘタミュの菊は耀と仲良くしたかったのだ。そういう感情が少なからずあったはずなのだ。
だからつい、溺れてしまった。目の前に広がった幻想郷に夢を見るように、自分の立場すら忘れて。
これが、菊が92としてのアイデンティティーを見失った原因であると思われる。
●史実の否定
しかしどれだけ逃避しようと、菊は本田菊という国である。
最終的に耀から依存するなと引き剥がされ、菊は漫然と1000年以上を過ごすことになる。そしてその間、なぜか幼い頃の菊には出会わない。
菊はこれについて「幼い私も引きこもっているのでしょうか」として納得しているが、これについて私は異を唱えたい。
なぜなら、開59云々で矢面に立っているのが、幼い菊ではなく未来から来た菊だからである。
耀と修行していた頃は、耀も菊のことを「本田菊」としては認めていなかった。だからこそ92ではない「本田菊」として過ごしていられたのだ。
しかし、蘭兄さんやアルフレッドは、菊のことを「本田菊という92」として認識している。そして開59するかどうかという選択を委ねられる。
どの時点からかは明確ではないが、私はこの時既に、幼い菊が現在の菊に取り込まれるような形になっているのではないかと考えている。
結局「本田菊」という92から逃れられなかった菊は、再び92としての重要な決断を迫られてしまう。
ここで、菊はやはり92として奇妙な行動に出る。鎖59の継続を選択するのだ。
92であるならば、現在の繁栄や発展、ひいては「本田菊」という自分が過去の積み重ねで出来上がっていることは重々承知のはずだ。なにより、ここで鎖59を選べば、逆にアルフレッドたちに食い殺される未来しかなくなるのも分かっていたはずだ。
それでも菊は鎖59を選んだ。回りからの情報を絶ち、選択を放棄した。
これは、未来の知識があるのも関係しているのかもしれないと私は思っている。ここで開59すれば不平等条約が結ばれ、そのうち耀との戦争があり、更にその後の大きな戦いによって、いくつもの酷い悲劇を引き起こすことになる。そんな未来を知っていて、なおかつ92としてのアイデンティティーを失っている菊は、もはや目先のことしか考えられなかったのかもしれない。
結果、菊は逃避の道を選んだ。傷付き続ける蘭兄さんや、「一緒に帰ろう」と迎えに来たかつての、あるいは未来の仲間を捨て、ひとり閉じ籠ることを選んでしまったのだ。
●あの世界は本当に「過去の世界」だったのか?
菊の選択により、歴史は大きく変わることになってしまう。しかし、あの世界を変えたのはそれだけではない。菊を助けに来ていたフェリシアーノやルートヴィヒも、アルフレッドが菊の元へ来る理由をねじ曲げてしまっている。
本来アルフレッドは鯨が欲しかったから菊の元へとやってきているはずである(他にも勿論理由はあるだろうが、物欲という点においてはこれが大きいだろう)。しかし今回アルフレッドが来港したのは「黄金が欲しい」という理由だ。明らかに理由が合っていない。
更に、蘭兄さんの態度も妙だ。今作の蘭兄さんは「引きこもりたければ引きこもっても構わない。自分が何とかするから」と言って、アルフレッドに逆らい続けている。
しかし、これは史実とは大きく異なる。そもそも菊に真っ先に開59を勧めたのは、他でもない蘭兄さんだったはずだ。アルフレッドやアーサーといった諸外59が力をつけている今、このままだと菊も植民地にされると思って、96船来港以前から声をかけ続けていた。そんな蘭兄さんが「鎖59を選んでも構わない」などと言うだろうか。
それになにより、今回のように必死で菊を庇っておいて「ツケでええ」などと言うだろうか。あの蘭兄さんが。弟妹からも金をとる蘭兄さんが。あれだけのことをして金を取らないなんてあるだろうか。
ここで私が考えたのが、この世界がそもそも厳密な過去の世界ではない可能性である。
もちろん、現実世界の耀が「過去にいる」と言っている以上、ある程度過去の世界に近くはあるのだろう。しかし、これだけ史実と異なる条件が揃っているところを見ると、厳密にはタイムスリップしていないのではないだろうか。すなわち、あれは菊の理想郷だったのではないかという説である。
これには若干根拠がある。ある時期から、キャラクターたちがあの世界のことを「過去」ではなく「あの/この世界」と呼び、もともと居た場所を「未来」ではなく「元の世界」と呼んでいるのだ。
確信はなくとも、なんとなくずれた世界だという感覚はあったのかもしれない。
あの世界が菊の理想郷であったとしたなら、様々な不審点が納得できてしまう。菊をとても可愛がってくれる耀に、鎖59を庇ってくれる蘭兄さん。そして何より、そこにいるはずの「幼い本田菊」が姿を見せないこと。
もちろん100%妄想の世界と言うわけではないのだろう。もしそうだとしたら、耀が菊を拒絶した理由も、アルフレッドが菊に攻撃してくる理由もない。恐らくは、菊にある程度都合のいい、一種のパラレルワールドのような世界線だったのだろうと考えている。
あの世界は、菊が92としての立場を放棄しても許される、引きこもるにはうってつけの世界だったのだろう。外部には巨大な敵がいて、しかし守ってくれる人もいる。優しかった恩師もいる。古く優しい記憶の中で閉じ籠っていれば、自分も誰かも傷付くことはない。
菊はそうして、鎖59を選んだ。
●理想郷からの脱却
逃避を続けた菊は、しかし最終的には己に向き合うことを決意する。仲間たちの説得を思い返して、自分が引きこもったことで傷付いている誰かを思って、考えて、そして、もう一度自分のアイデンティティーを見つめ直すことを決める。
庇い続けてくれる蘭兄さんの優しさに甘えること無く、自分の弱さや優しさといった点から目をそらさず。そしてこれからの強さを思って、菊はアルフレッドに開59を宣言した。
その場にいた蘭兄さんは「本当にいいのか」と尋ねてくる。ここでもう一度鎖59を選べば、きっとボロボロになりながらも菊のことを守ろうとするだろう。
しかし菊は自分の言葉を曲げなかった。それは守られてばかりの世界から脱却しようとする、独立への一歩だ。
それから色々あって、いつもの3人で富士山を登ることになる。しかし途中でアルフレッドに追い付かれ、フェリシアーノがアルフレッドと共に山の下へと落ちてしまう。山頂にはたどり着いていたルートヴィヒはフェリシアーノを置いていくことを決意するが、菊はそれを嫌がり、単身フェリシアーノを探して山の下へと降りていく。
この富士山は、主にパワースポットとしての面を強調されている。
だが富士山とは「不死山」、すなわち不死性を司る山でもある。
そんな富士山に、アイデンティティーを見失った菊が登頂する。これは一度「人」となってしまった菊を「92」に戻す、その作業の一貫でもあったのではないだろうか。
ようやくフェリシアーノを見つけた菊は気球を使って山頂に戻ることにするが、アルフレッドの妨害に合い、先にフェリシアーノだけを出発させる。そして、アルフレッドが連れてきていた耀と、再び対峙する。
菊は耀との勝負に勝ち、気球から垂らされたロープに捕まって脱出しようとする。それに追いすがるアルフレッド。菊はアルフレッドを振りきろうと小銃を構えるも、「君はヒーローにはなれないんだ」というアルフレッドの言葉に怯み、撃つことができないでいた。
菊は耀が作った火薬を守ろうとしていた。しかし、結局はフランシスたちと同じく戦いの道具として使用することを選んでしまった。
「君も俺と同じだ」というアルフレッドに、「これは違います」と叫ぶ菊。しかし、菊自身その力の使い方が間違っていることには気がついている。
これは、この世界の未来も現実と変わらず、争いばかりの世界になっていくことを示唆しているのではないだろうか。菊が逃避していた世界が、どんどん現実に近づいていく。すなわち、理想郷の崩壊である。
そこに登場したのが耀であった。耀はアルフレッドを一時的に撃退するも、また襲われて落下する。その前に菊は「一緒に行こう」と耀を未来の世界へと誘う。
この耀は、ある意味で菊の理想の耀である。これから裏切られることを知らず、あるいは裏切ることを知らず、もう昔のように仲良くはできないと諦めているわけでもない。この耀がいれば、菊は耀との関係に悩むことはなくなる。
しかし、耀はこれを拒絶。結果、アルフレッドと共に下へと落ちていく。
「我はここで生きていくある」
耀の言葉を聞いた菊は、耀を追わないという選択をする。その前に落下したフェリシアーノは追いかけているのに、である。
これは菊が、理想郷から完全に決別したことを意味しているのではないか。
●力の昇華
ここで、作中でずっと言われる「大きな力」というフレーズについて考えておきたい。
そもそもは耀が開発した火薬である。耀はそれを土木工事のために使うつもりだったが、若きフランシスに見つかり武器にされ、アントーニョと共に銃にされる。そしてアルフレッドはそれを大砲として使用している。
「大きな力は使い方によって良いことにも悪いことにも使える」
作中なんども出てくる、耀の言葉である。これに、蘭兄さんの言葉が重なる。
「これからの時代は腕力ではない。心に花を咲かせるような、そんな力が必要だ」
菊は耀が作った技術を争いには使いたくなかった。だからこそ蘭兄さんの言葉を覚えていたのだろう。
しかし、結局菊はアルフレッドに小銃を向ける。そして、それを見たアルフレッドは嗤いながら言うのだ。
「君も俺となにも変わらない」「君はヒーローにはなれない」
それを聞いた菊は愕然とする。どれだけ否定しようとも、それは暴力の延長線でしかないと、心のどこかで気がついていたからだ。
最終的に、菊は耀が発明した火薬を「花火」という形に変えて利用する。
耀の土木工事の目的とも、フランシスの武器として利用する目的とも違う。決して生活の役には立たないし、一瞬で消えてしまう、花。
しかしそれは誰かの心に花を咲かせ、きっと誰かを笑顔にする。そういう利用方法だった。
作中なんども「優しい」と言われてきた菊らしい終着点だと思う。そしてなにより、本人は気がついていないようだが、本田菊という92が持つ手先の器用さや、派手ものが実は好きという性質も活かされている。そしてなにより、空気を読んで機転を利かせようとしたからこそ、菊は花火を選んだのだ。
フェリシアーノは「菊はヒーローだったよ」と言う。それは争いを好まないフェリシアーノだからこそ言える発言であっただろう。
92としては致命的な「優しさ」という面を長所としてとらえ、ずっと菊を励ましてきたフェリシアーノだから言えるのだ。
●富士山の存在
竹取物語には、「富士山の頂上から煙が出ているのは、不死の薬を燃やしているからだ」というような表記がある。
富士山が最後に噴火したのは1707年。以降、現代に続くまで富士山は噴火していない。幕末の時代においても、今とそう変わらない、煙など立っていない富士山があっただろう。
そんな富士山に再び火を灯し、煙を立たせ、そしてその火から着想を得る。これが92として再起する一連の流れに重なっているのではないかと思った。
●総括
「火薬」と「大きな力」をかけたシナリオは、昨今の情勢ともう一度向き合う機会を提供してくれた。また、菊の「個人」としての感情が次第に92由来のものと混ざっていく光景が大変丁寧に描かれていた。
今までのヘタミュは、時代の波に揉まれながら、あるいは誰かの判断に振り回されながら、それでも信念を貫こうとする92たちが描かれてきた。
しかし今作は違う。誰の判断でもない、自分自身で「今」と「己」を選ぶ。それは92ではなく個人の生き方だ。
それだけの自我を持った「個」でありながら、最後には92という立場を選ばざるを得ない。時にはそれが最適解だと知っている。結局、人間のようには生きられないのだ。
それは「ヘタリア」のキャラクターの悲しい所であり、面白い点でもある。
原作においてもこれに準ずるエピソードが存在する。例えば「青い花ショック」では、自分と人間が同じ存在と信じて疑わなかった幼いアルフレッドの、悲しい事件を描いている。
また、「私が去ろうともあなたは残る」では、逆に人間側が「彼ら92と私たちは違う」と線を引いている。
こういった「92の個人としての感情」が描かれるのはむしろ原作の方で、ミュージカルではあくまで史実が描かれ続けていた。
そう考えると、今作はある意味で「原点回帰」であったのかもしれない。
ヘタミュのシナリオはどれも好きだが、今作はその異例さもあって、小説か何かのようにも思えて楽しかった。ストーリーにSFが関わり始めた辺りで「今までと違う!」と大変ワクワクして観劇できた。
現代組とお花組と菊視点という、3つの視点で話が進むのもなかなか新鮮で面白かった。3つの物語がうまく噛み合う瞬間が気持ちよかった。
かなり新しいことにチャレンジした結果が、今回のヘタミュであったのだと思う。個人的には大変面白かったし、決して今までのヘタミュが無くなったわけではなく、むしろ新しい段階に進化したのではないかと思っている。
今から既に次回作が楽しみだ。
●おまけ(ここからはただの感想)
・今回初登場の蘭兄さんについて。中盤の、フランシスやフェリシアーノなどが楽しげに体を揺らしている歌については「とりあえず義務だから踊っています」というような、どこか動きが固く見えたんですけど、一方で最後の曲やエンディング中はクールなキャラを保ちつつ、それでいてキレ良く楽しげに踊っているように表現されていて感動しました。声も優しげだし、なんか本田さんに優しいし、心のなかで「彼氏か???」と呟いた数は数知れず。
・実は、エンディングでそれぞれが歌い終わったあとの、一礼する仕草が大好きです。特にギルベルトの、あの粗暴な歌を披露した後の美しい一礼、めちゃくちゃ好きです。アーサーの「紳士~」って感じの礼とは違って、なんというか、「お育ちが良い~~~~~~~~~」って感じの……好きですね……。
・今回お着替えめちゃくちゃ多くて興奮しました。蘭兄さんまで地味だけどしっかりお着替えがある! フランシスが白のフリルのブラウスみたいなの着てきたの、めちゃくちゃ似合っててヒョエー!と内心叫びました。あと耀さんの赤い服もめちゃくちゃ好きです……。かっこいいね……。
・今作はテバット彗星や富士山といったスピリチュアルな面と、ワームホールなどを使ったSFな面とがが組合わさってて、本当に面白いストーリーだったと思います。ここからヘタミュ見るよ!って人にも是非是非おすすめしたいですね。
・演出めちゃくちゃ凝っててすごいなと。プロジェクションマッピングもそうですけど、影絵を利用したり、垂れ幕の富士山を利用したりと、観客が最大限楽しめる工夫がされていてとても面白かったです。
・エンディングで座長が「今度は絶対、みんなで立とうね!」と叫んでいたのにグッときました。情勢的に仕方なかったとはいえ、やっぱりおきろしが居ないと寂しい……! それでもキャストの皆さんが「客席におっきーがいる!」とその存在を舞台へと引き上げようとしていて、キャストの皆さんの愛を感じました。今度こそ、みんなで立とうね……!!