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コーヒーは苦い。

今日はいつもより冷えるから久々にホットコーヒーを注文した。天井の明かりを反射するその黒は鏡のようで、つい覗き込んでしまう。情けない顔した自分が映った。ま、当たり前のことなのけれど。それがなんだか悔しかったので、冷ますふりして息を吹きかけた。

昔はコーヒーなんて飲めなかった、と言えば。うん、そりゃ大抵の人もそうだろう。好き好んで飲めてはいなかったという方が、そうだね、きっと正しい。背伸びしがちな子供だった自覚がある。出来ないと言われたら出来ると反発した。やめろと言われたらやった。人の思い通りになることが嫌いだった、意外な結果を見せて驚く相手を見たかったのだ。面倒くさくて、子供らしいと言えば子供らしい。だから、お前にコーヒは早いと言われたことが悔しくて、味も香りも知らぬままに初めてコーヒーを飲んだ。黒い水、その見た目に怯え味で確信した。これ、嫌いだと。そんな心にさえ反発して口では美味しいと言って見せたが内心は泣きそうだった。どうして大人はコーヒを好むのか。それが不思議でならなかった。「大人になるにつれて味覚は変わるのだ」と説明されたけれど、体験したことがないことを理由にされても素直には飲み込めなかった。小さな疑問は舌に残り、後を引くように考察は続いた。

コーヒは苦い、今でもそう思う。では美味しいかと問われたら、それはどうだろうねと曖昧にしか答えられない。甘味は好きだが苦味は好きではない。ではなぜ、なぜ好きではない味を好むのか。子供が問う、分からないよ。好きでなくとも、好むことはできる。抽象的で矛盾だ、質問の答えになっていないと批判される。けれど知ってしまったんだ、明確に説明できることの方が本当は少ないということに。疑問は尽きないのに答えは足りない。何故どうしてを繰り返すばかりでは前に進めないと知ってしまったのだ。聞いても調べても納得できないならば、自分で探すしかないのだと学んだのだ。いつか答えを見つけるその日まで、抱いた疑問を忘れぬようと留めておく。後を引く感覚は、あの日感じた苦味のようだ。

とはいえ、塵も積もれば山となる。小さな疑問はやがて抱えきれなくなったら捨ててしまう。”そういうものだから”という大きなラベルを貼って捨ててしまう。狡い、と子供が嘆く。でも無理なものは無理、分からないものは分からない、と何処かで区切りをつけて整理をしないとダメなのだ。ダメになってしまうのだ。人は永遠には生きられない、答えを知るための技術も知恵も未だ発展途上だから、ずっとは抱えていられない。答えを見つけるためにも、割ける容量を広げたいんだ。そんなこと分かっている、本当は分かっている。けれどこうして捨てた疑問を拾う、思い出すことを止めないのはただの反発に過ぎない。”そういうもの”と理解すること、それを大人は諦めと言うんじゃないのか。最後に届いた子供、疑問の声に何も返せない。それがなんだか悔しかったので、聞こえないふりしてコーヒーを一口飲んだ。