「推し」文化につかれたはなし
推し、いますか?
わたしも一時めちゃくちゃ使ってた言葉なんですが…
推しって言葉っていま一般化したとともに微妙に使いづらい言葉だなあと思っていて…
それはいわゆる女オタク界隈(界隈って言葉もなんかだよねとは思うし女に限らないんですが、世間一般にそういう印象をもつ人が多いと思うので前提とさせていただきます)のオタ活事情にもよると思うんですが、
もちろん、いいと思うこともあるんです。
「〇〇くん推しとして、マナー守るのは当然だし誇れるファンになりたい。」とか。
でも推しができるとやっぱりこう…
「推しに対してどれだけ消費するか」
「どれだけ好きなことをアピールできるか」
というものを求められてしまう気がして…
いや、そんなん気にせず自分の好きなようにすればいいんだけどこのSNS社会に置いて比較とか嫉妬とか、そういう気持ちを持たずに凪でいられることってどれだけ難しいか…
(自分がもっと多感な青春時代にツイッターなくてよかったなあって心底思う…)
何が言いたいって
なんか疲れたなって。
ちょうどそんなポストを見かけたので追記します!
これ…おそらく話している内容は「推し」「推し活」という言葉と行為が消費行動に結びつけられてしまって、本来の意図でつかわれなくなっちゃったよね。それに対して一種の強迫観念じゃないけど、それがいまのスタンダードとして若い人から搾取するキーワードになっていないかってことだと思うんだけど。(ちがったらごめん)
それもまああるし、このSNS社会においてまあわたしはX(ツイッター)だけどインスタtictocであれだけキラキラした推し活アピールを見るとそれにひっぱられて「好きだったらこうして当然」とか例えば発言力のある人に引っ張られてしまって自分の気持ちをないがしろにしてしまったり。みたいなことがまああると思っていて…
○○推しです!って主張もオタ活も楽しんでる方はそれでいいし、強いなあと思うんだけど。
適わないな…とか、もっとこうしなくちゃ!みたいに思わなくてもいいじゃんね…自分の好きなように好きを持つことのほうが重大じゃないか…と去年の秋ごろにようやっと気が付きまして。
(便利だし、言うし、友達としゃべっててその言葉を使うなというわけではないんだけども)
比較してしまって適わないなって思ったりすることは疲れるし、自分と異なる意見が賛同されているとストレスを感じるし、視界に入ってくるからこそ純粋にどんどん楽しめね~って言うのがあったりで身の置き方って大事だなと今更ながら思ったんだけど。
推しを推しと定義することによってわたしは余計なエネルギーを必要としてしまう気がしたので、それはそれ込みで果たして好きと言えるんだろうか?
彼を、彼女を推している自分を推しているんじゃないの…?と思ってしまって。
そもそもわたしは移ろいやすい人間なので、定義すること自体が疲れてしまうのもある。
(推し変って嫌な言葉だよね…好きなことに変わりはなくて、ただ自分の中の優先順位が変わっただけなのに。そしてそれはじゃあお前にはなくてわたしにだけあるのか?と思ったり。)
というのもいま好きな子が、よく「見たいときに来てくれたらいいからね~」とか「気が向いたら来てね」と言ってくれるタイプの配信者さんで、終わり掛けに「いいゆめみろよ~」と言ってくれる人で。
推しってなるとやっぱり全部の配信見たい、見て当然、コメントもしなきゃグッズも全部ほしい。みたいになりがちだし、基本はそうだし、わたしもできるだけそうしたいんだけど…
彼にそう言ってもらえることで、推すって別にそういうことだけじゃないんだなあってやっと気が付いたというか。
なんというかそうしなくても応援してるってわかるしそれでいいんだよって言ってもらえたような気がして。
そうじゃなくてもいいのか…と当たり前なんだけど自分に勝手に課してたなにかを取っ払ってもらった気がして。
だってどれだけ好きかなんて、誰にもわからないのだから。
いま最上級の好きがそこにあるって自分自身がちゃんと分かっていればそれでいいんじゃないかって。
まあだからその言葉を使うことをやめたところでなんにも変わんないんだけど、気持ち的に「好き」でわたしはいいかな~って思った。のはなしでした。
と、そんなことを言った矢先に離席したときにコメント欄で「好き」って言うムーブやめてほしいみたいなおはなしがあってバクバクしています。
この気持ちは違う方法でなんらか伝えられたらなと思うし、自分も改める機会になりました。
それでもまごうことなき「好き」ではあるよ。応援しています。
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