散れ、雨情

 帳が下りる。すっかり陽が落ち、提灯の明かりでも無ければ歩くのもままならない、そんな野道を歩く四人の男達。正確に言えば、四人の武士だ。

  四人は陣形で歩いており、一人の男を三人がいわば護衛の様な形で守る様に歩いている。真ん中にいるのは、形良く皺も無く、しっかりと手入れされた肩絹を羽織り、折り目正しい袴に身を包んだ精悍な顔つきの男。男の前に立ち提灯を持って野道を照らしているのは、強面の顔つきにやけに顎が長い男。右に付くは片目に傷痕のある、眼光鋭い男。左には恐らく最も若い風貌の、目を泳がせながら不安げに歩く青年。

 真ん中の男に比べて顎男、片目、青年の衣服は幾分軽装であるが、青年以外の二人が腰元に差す刀の柄は使い込まれており、手練れの雰囲気を漂わせている。

 時間柄のせいか、四人以外にこの道を歩く者はいない。だが顎男と片目は周囲への警戒を怠らない。と、顎男は気づく。誰かが前方から歩いてくるのを。じっと目を凝らすと、次第にその輪郭がはっきりと形を帯びてくる。

 どうやら女、だ。提灯を掲げると、その女の姿が分かってきた。背は女性としては高い方だが、男達よりは低い。背中には籠を背負っており、いかにも農作業を終えてきた、そんな味気の無い……言わば、百姓と呼ばれる類の服装をしている。茶色を基調とした麻で織り込まれた小袖や、履物から察するに。ただ、それ以上に特徴的な点がある。

 女は両目を閉じており、右手で杖を突きながらゆっくりと歩いている。その姿に顎男は強めている警戒心を緩める。とはいえ目が見えていない……盲目な為か、まっすぐにこちらへと向かってくる為、顎男は女に野太い声で言う。

「おい女、脇にどけ」

 女は聞こえているのかいないのか、構わずにつかつかと歩き続けており、このままだと正面からぶつかってくる。顎男はイラついてか、大分語気を強めて。

「おい貴様、耳も聞こえんのか!」

 と、顎男の声に肩絹は一瞬怪訝な顔つきになる、と提灯に照らされている女の顔を見、小さく溜息を吐くと顎男の肩を軽く叩いて、自ら脇に退きながら言う。

「よさんか。私らが退けばいいだけだ。みっともないぞ」

 肩絹に諫められ、顎男はバツが悪そうに視線を逸らしつつ肩絹と同じ様に道を譲る為脇に退く。合わせて片目と青年も、その後ろへと並んで道を開ける。男達が一列になる、どこか間の抜けた光景の横を女が歩いて通り過ぎていく。さ、行こうかと肩絹が言って、再び歩き出そうとした、時だった。

「あんたが島田門左衛門かい」

 女の一声に、片目の耳がピクリと動いた、何奴と振り返ったが最後。

 片目の首筋がスパッと、一文字に切り裂かれる。どぼり、と片目の袴が赤黒い血で染まっていく。何が起きたのかが認識できず、片目は首筋を両手で抑えながらも、がくがくと両膝を震わせて地面に項垂れた。三人とも目の前の出来事がすぐに理解できずに呆然としていた、が。

「谷垣、島田様を守れ!」 

 即座に顎男が肩絹―――――島田を守ろうと、慌ただしく移動して抜刀して正面に立つ。だが、そこに奇襲を仕掛けてきた敵の姿はない。いや、どう考えても一人。あの、盲人であろう女しかいないだろう……と察した、その時だった。

「あんたに恨みはねぇが……許せ」

 声がして顎男はその方向へと刃先を向けようとした。だが既に遅く。

 気づかぬ間に女は顎男の目下にしゃがんでいる。顎男が頭上に構えた刀を振り下ろすよりも素早く、杖に偽装した仕込み刀を順手で持ち替えると、躊躇する事無く両膝へと振り払った。かまいたちにでも襲われたが如く、顎男の膝小僧がパックリと笑い、苦痛に顔を歪ませながら顎男は跪き――――――女はその首を撥ねた。ごろりと、顎男の頭部が無造作に転がる。

「ききき……貴様……」

 あっという間に二人も無残な死体となった事に、谷垣、と呼ばれた青年が手を震わせながらも、どうにか護衛を果たそうと島田の前に立つ。先ほどの覚束ない歩き方が嘘の様な機敏さで、女は刀を順手から逆手へと持ち替えて、腰を屈めながら谷垣と島田に言う。

「……疲れる。用あるんはそこの島田だ。退けばおめえは斬らん」
「ふ……ふざけるな! この方は」
「谷垣。下がれ」

 怯えている谷垣の肩を強く叩き、あろう事か島田が自ら女の前へと出てきた。自らの命が狙われているというのに、その口元には笑みが滲んでいる。島田は腰元に差している、明らかに質が違う、黒々と艶やかな鞘から自らの愛刀を抜き出した。そうして女へと問う。

「一応聞いておくが……誰の遣いだ貴様」

 女は無言だ。ただ、仕込み刀の刃先を島田に向け続けている。それが答えの様だ。

「まぁ……誰でもいいか」

 島田は苦笑しながら愛刀を両手に持つ。じりじりと摺り足で女との距離を図りつつ、女に構わず話し続ける。その声色には歓びとも、あるいは挑発的な趣きも感じる。

「最初に言っておくが……私にそれを向けたからには容赦は出来んぞ、女。何故自ら命を投げ捨てる」
「……仕事だ。これが、あたしの」
「島田様!」
「谷垣! 手を出すな。久々に血が滾ってる。それに……」

 島田の眼光が女性を見据える。両手の、特に親指へと力を込めながら、右足が女の方へと向く。膝をゆっくりと曲げながら―――――。

「つまらぬ畳の上で死ぬより、楽しい」

 瞬歩、その恰幅のいい図体にそぐわぬ迅速さで、一気に島田は距離を詰めてきた。頭上から振り下ろされる刃の速度に、女は更に体勢を低めて刃でその攻撃を受け止める。暗夜に鈍く響く、金属の衝突音。女は盲目とは思えない身のこなしで、右へ左へと迫る島田の攻撃を時に避け、時に受け止める。だが。

「つまらん!」

 島田はそう叫びながら、仕舞っている脇差を空いている手で器用に抜き出した。そうして、脇差を真っ直ぐに突き刺す様に女の胴体へと突き出す。

 っ! と、女は突き出されたそれを避けんとつい体勢を崩した―――――のを、島田は見逃さない。くるりと回転する様に、女の腹部目がけて蹴りつける。その威力に、女は涎を垂らしながらよろめいて、仰向けで転げる。追い打ちを掛けるが如く、島田は女性の手首を踏み付ける。刀が手から離れた。

「素人にしてはよくやった。が……」

 勝利を確信した様に、島田は女の首元に愛刀を突き付けた。

「所詮この程度か」

 だが、女は慌てる事無く手元に転がっている石を、石の尖っている部分を島田の足首目がけて力一杯叩きつける。予期せぬ激痛に島田の口元が歪み、後ろへと後ずさる。

 女は刀を掴み直して起き上がる。流れる様な動作で素早く立ち上がり、全力で踏み込みながら島田の腹部へと刀を突き刺した。全体重を乗せながら一歩、二歩と歩いていく。

 愛刀と脇差を手放して、なすがままな島田だが、口元から血を流し―――――それでも不気味な笑みを浮かべながら言う。

「……女。地獄だぞ、貴様を、待つのは」
「……知っとる」

 瞬間、女は刀を島田の腹部から力一杯に引き抜いた。島田の腹部からどぼぼ、と滝の様な血が噴き出し、赤い水溜まりが広がる。そのまま島田は突っ伏して動かなくなった。恐らく息の根も止まっているのだろう。谷垣が刀も放り投げて、走って逃げていく。女は追う事はしない。刃に滲む血を、籠の中の布を取り出しべっとりと拭き取って、杖へと収納するとゆっくりと歩き始める。


「おう、ようやったな」

 表に仕込み中と看板を出している、とある酒屋。頭にねじり鉢巻きをした男が、片手に持った煙管から灰を落としつつ、島田ら武士を殺害したあの女へと声を掛ける。女は出されている緑茶にも手を付けず、平坦な口調で鉢巻きへと言う。

「……平蔵さん、銭、下さい」
「おっと悪い、そうだったな」

 女に催促され、鉢巻き、平蔵は立ち上がると、片手にずっしりと重い布袋を取り出して女の目の前に置く。女はそっとその袋を手に取ると懐に仕舞い、座敷から立ち上がって去ろうとする、と。

「なぁ、小雨」

 平蔵に呼び止められ、女―――――小雨は歩き出そうとした時、足を一旦止める。少しだけ振り向く動作をすると、平蔵は小雨に。

「……おめぇにはいつも世話になってるが、まだ、仕事すんのか。もうそろそろいいんじゃねえか」
「……まだ、諦める訳にはいかねぇんです」

 そう言う小雨に、平蔵は小さく溜息を漏らしながらも。

「でもよぉ、おめぇも……俺はもう、諦めた方が良いとは思うんだが……もう、大分経っただろう。探し続けてよ……」

 僅かに、小雨の杖を握る手に力が籠る。感情を大きく表には出さない小雨だが、それでも平蔵の言葉に何かを感じているのか、俯いている口元が強張る。小雨の反応を知ってか知らずか、平蔵は更に続ける。

「それに、何だ……あの人の下でおめぇも随分働いて来ただろ。俺が説得すりゃ話は聞いてくれるからよ、そろそろ……」
「……明日は、墓参りさ行きます。何か仕事あったら、宜しくおねげえします」

 そう言い残して、小雨は平蔵に背を向けて、そのまま出ていった。その様子に平蔵は頭を掻きながら、深い溜息を漏らす。煙管を床に置いて代わりに引き出しから人相の悪い似顔絵が描かれたざら紙を取り出すと、朱色の筆で大きく罰印を書いた。

 町の喧騒から大分離れた、見渡す限り田んぼしかない様な僻地。そこに小雨の自宅……というより住処がある。遠目から見ると人が住んでいる様に思えない、藁が積み重なって荒れている屋根にしろ、著しい経年劣化を感じさせる柱にせよ、今にも地震が起きたら倒壊しそうなほどの荒み切った平屋だ。柱に無気力に背を任せて座り、小雨はじっとしている。

 何故、小雨がこの平屋にいるかと言えば―――――ここはかつて、小雨が家族とともに住んでいたからだ。幼少の頃、決して裕福ではないがそれなりに満ち足りた生活をしていた農家を営む家族の娘だった。

 だが両親が強盗に襲われ、その際に弟の弥吉を連れて逃げようとした時、小雨はその一味に頭を殴られた挙句目の前で弥吉を斬り殺された。頭部の損傷や、度重なる悲劇の末に、小雨は目を開けられなくなってしまった。

 それでも必死に逃げ出し、命からがら町にまで辿り着いた際に助けてくれた「男」に救われた……のだが、その男が暗殺稼業を営む男であった。

 それ以降小雨は生きる為に殺しの術を学んだ。学ばざるおえなくなった。非常に厳しい指導を受けながらも、小雨は歯を食いしばり耐えた。それも、家族を殺した者への復讐の為に。巧みに小雨、というのは本名ではなく、男が助けてくれた際に小雨が降っているのを見、偽名として授けた名である。

 ……そうして生きてきて、十数年経った。
 
 犯人の行方が掴める程現実は上手く行かず、代わりに小雨の人を殺める能力ばかりが研ぎ澄まされていく。復讐以外の欲はなく、金を払い様々な伝手を頼り、それらしき悪党を探しては自ら手を下してきたが、とうとう本丸に辿り着く事なく、時間ばかりが過ぎてしまった。

 小雨にとって、家族を殺した者への復讐が生きる道理であったが、そろそろ揺らいできた。平蔵からは他の事に目を向けろと忠言されているが、小雨にはそれしかない。それ以外ないのだ。

 だからこうして、時たま戻る。かつての思い出の亡骸に。こうしていると思い出せるからだ。自分の中の憎悪を。怒りを。だが……。

「……疲れたよ、お父、お母」

「……弥吉」

 誰もいない中、小雨はポツリと呟いた。


 後日。きちんとした着物に着替え、小雨は墓参りへと向かう。仕事の時はその都度指定された服装に着替えての暗殺となる為、場合によりみすぼらしくなるが、身綺麗な小雨はガラリと印象が変わり淑やかな女性に見える。とはいえ武器の杖を手放す事はないが。

 枯れた花々を綺麗な物へと差し替え、しっかりと水洗いをし、そっと手を合わす。内心に眠る情念を宿しながら、小雨も人間である以上腹が空く。適当に目に付いた甘味処に入り、団子を注文する。それほど味を重視しないため、運ばれてきたみたらし団子を無表情で完食する。看板娘に眠っているのか確認されたが、もうこんなやり取りも飽きるほどである。

 店を出、目的は既に果たした為、新たな仕事があるのかと酒屋に寄ろうとした時。

「どけどけぇ!」

 小雨は目は見えないものの、嗅覚や聴覚が長年の蓄積により常人以上に澄まされている故、人の気配も(戦闘時でなくても)察知出来る。なのでこちらに向かって走ってくる複数の男性達の気配を察してさっと脇に下がり道を空ける。男達は町人たちの怪訝な目も気にせず、何かを探しているのか焦った様子で二手に分かれて駆けていった。

 騒がしさに鬱陶しがっていると、ふと小雨は反射的に杖を強く握る。敵―――――かと、思ったが違う。敵にしては「匂い」がどこか幼い。何と表現すればいいのか……例えて言えば、子犬の様な匂いがする。

「離れんさい」

 小雨にそう言われ、小さくひっ……と声を出しながら、その声の主が小雨から離れる。その声の主、少年は町人らと同じ様な格好をしているものの、どこか着慣れていない……ような違和感がある。全体的に手が袖に隠れており、丈が余っている。勿論、小雨がその様な特徴を認識は出来ないのだが。

「ご、ごめんよ……。姉ちゃんの背中に、隠れて……」

 少年は俯きながら小雨にそう謝る。その声色に、小雨は先ほどの男達の様子からあくまで勘であるが、何らかの事情でこの少年が追われている事を察する。だがだからといって情を掛ける理由もない。何も言わずに見下ろしている。少年は視線を泳がせると、やがて頭を下げて。

「じゃあ、俺、行くから……」

 小雨にそう言って少年は踵を返してそろそろと歩き出す。小雨も歩き出そうとした時、耳元に小さな音が聞こえてきた。普通の人ならば聞き逃す位の小さな鈴の音だ。

 つかつかと小雨は歩き出し、その音の鳴った地点でしゃがむ。拾い上げると、指先の感触からそれがお守り、それも鈴が付いている物だと認識する。

 ふっと、脳裏に過ぎる記憶。

「弥吉!」
 
 まだ家族がいた頃。小雨は農作業に父と出かけようとしている弥吉に声を掛けた。弥吉が振り向くと、小雨が何かを手渡す。

「お母がこれ持ってけって」

 小雨の掌にのっているのは、母が手作りしたお守りだ。素朴な作りのそれには、立派な字で無病息災と書かれている。それを見、弥吉は不満そうな顔をして。

「オラぁこんなしみったれたのいらねえよ。大体怪我しねえし」
「良いから持ってけって、お母悲しませる気か」
「それなら―――――が持っとけよ。オラ行ってくる!」
「あっ、弥吉!」

 小雨の制止も聞かずに、弥吉は元気に走り出していく。その際にいたずらな笑みを浮かべながら振り向いて。



 気づけば小雨はその、少年が落としたお守りを拾い上げ握りしめている。杖で地面を、恐らく少年が走っていく際の、足跡の輪郭をなぞっていく。多分それほど遠くには、まだ行っていない筈だと思う。つかつかと、その後を追っていき―――――やがて、小雨の足は止まった。

 右方へと体を向ける。そこには薄暗い路地で身を潜めて隠れている少年がいた。少年は小雨の存在に気づいたのか、怯えた様子でゆっくりと、俯いている顔を上げていく。上げて、小雨を見上げながら。

「な……何で……」

 小雨は掌のお守りを見せる。

「落とし物だ。おめぇのだろ」

 小雨のその言葉に、怯えていた少年の顔つきが徐々に変化していく。驚いた様に口をポカンと開けると、やがて安心とも、やはり困惑ともが混ざった表情で。

「あぁ……それ、俺のだ。わ……わざわざ届けに……」
「……拾ったから、届けに来た。それだけだ」

 恐る恐る、ではあるが少年は立ち上がり、小雨の掌からお守りをそっと受け取る。受け取って、大事そうに胸元で包み込むと小雨に言う。

「……姉さんがくれたんだ、これ。何があっても大丈夫なように、って」
「……追われてんのか、おめぇ」

 小雨にそう尋ねられて、少年はぽつり、ぽつりと呟く。

「……俺、抜けてきたんだ。お頭が……また里燃やすらしくて」

 抜ける、と聞いて小雨は恐らく少年が……忍の一員か何かだと察する。大方、それで仲間と揉めて逃げてきたのだろう。それなら(小雨自身は見えてはいないが)どこか身の丈の合わない服装なのも理解できる。

「だから俺……」
「迂闊だぞ、おめぇ」

 不意に小雨の口からそんな言葉が飛び出す。少年も驚いているが、小雨自身も実の所驚いている。何故なら少年の身の上がどうだろうと関わる理由などない為だ。だが、小雨の中で何故かそういう言葉が勝手に喉から出てきてしまう。

「もしあたしがおめぇの敵だったらどうする、斬ってるぞ」
「お、俺は……」
「……ペラペラ喋んな。……生き延びてぇんだろ」

 そう言いながら小雨は着物の袖から何かを取り出す。それは一応予備で持ってきている、小雨が仕事で得た銭の一部が入った布袋だ。弛んだそれには、数日は飲み食いして過ごせる程のそれなりの金額が入っている。

「これ……」
「黙って……受け取れ。少しは足しになるだろ」
「いや、これは姉さんのだろ、受け取れない……」
「意地張るな」

 小雨は少年の腕を掴んで体を寄せる。小雨の外見から想像できない力強さに少年が更に驚いていると、捻じ込む様に布袋を少年の懐へと忍ばせる。忍ばせて、肩を叩き。

「……この路地先、しばらく行ったら広い道に出る。逃げろ、そこから」
「姉さん……」


「ここにおったんかぁ、童」

 横から急な声がして、小雨と少年は同時にそちらの方へと顔を向ける。
 
 そこには頭に唐傘を被り、全身を引き廻し合羽で包んだ、一見旅人の様な背格好の男が佇んでいる。声の感じはしがわれており、傘の下に覗く顔立ちには、幾層にも深い皺が織り込まれている。その姿を見た途端、少年は思わずその場に腰を抜かした。

「やっぱり若いのは使えんのぉ……。元より儂だけで充分じゃった」

 その老人の雰囲気と少年の様子に、小雨は迷わず杖を両手で持ち戦闘態勢へと移行した―――――瞬間。

 体に圧が掛かったかのような殺気。歯をキッと食いしばりながらその圧を撥ねようとした、が。気づけば小雨の目前に、細長く鋭利な得物ーーーー棒形の手裏剣が飛んできた。決断即座に小雨は鞘から刀を抜き出そうとする。隙間の刃によってそれは宙に弾かれた。だが。

「姉さん!」

 飛んできたもう一つの手裏剣が、小雨の右肩へと無慈悲に突き刺さる。思わず声を上げながら、小雨はその場に転倒した。肩をやられたせいで、刀を引き出せない。足音でこちらに歩いてくるのが分かる、だが何も出来ない。老人は小雨を見下しながら抑揚の無い声で言う。

「仕込み刀かぁ。通りでおんなじ匂いがすると思った」
  
 のんびりとした口調と裏腹に、非常に素早い動作で老人は羽織っている合羽を脱ぎ捨てる。露わになった胴体にはガンベルトの様に収納された棒型手裏剣があり、明確な殺意を感じさせる。老人は両腰に差しているクナイを慣れた動作で引き抜いて、逆手に持つ。

「姉さん、姉さ……」

 小雨に縋ろうとした少年を威嚇する様に睨みつけつつ、老人は仰向けに倒れたまま身動きが出来ない小雨の元へと滲み寄る。小雨はどうにか肩に突き刺さっている手裏剣を抜こうとするが、思った以上に深く中々抜けない、内に。

「おもしれえもん持ってんな」

 小雨の杖を老人は拾い上げると、思いっきり明後日の方へとぶん投げた。距離的にも、老人の位置的にも小雨が杖を取り返すのはほぼ不可能だ。老人は小雨を抑え込む様に胸元へとしゃがむ。抵抗する小雨の左手を掴んで無理やり広げさせると―――――その手にクナイを突き刺した。

 耐え切れず、小雨は喉から振り絞るような叫び声を上げる。

「鳴いても誰も来ねえよ。諦めな」

 右肩と左手の自由を奪われ、痛みもあり小雨は実質老人に敗北を期している。老人はもう興味がないとばかりに立ち上がり、少年の方を向く。

「さっ、帰るべ。まだ腕一本くらいで済むかんな」

 小雨の現状に、少年は絶望した様に俯いている。俯いている―――――様に見えるが、老人からは見えない所で、その手には小雨から受け取ったあの布袋を握っている。そろり、そろりと老人が近づいてくる。やがて目の前でしゃがんだ瞬間。

「俺は……」

「俺はもう……人殺しは、イヤだ!」

 少年は強く掴んだ布袋を取り出し、顔を近づけてきた老人の頬へとそれを殴りつけた。銭の重さもあり鈍い音がして、老人の顔が一寸強くブレる。だが、老人は無表情のままだ。柳の様な腕を伸ばして少年を無理やり立たせようと、頭を鷲掴みしてくる。

「やめ……やめろ!」
「今ここで死にてえんか」

 ―――――同時に、その衝撃音で小雨は察した。少年が老人に連れていかれる。その現実への怒りが、小雨の中で強く渦巻く。ぎりぎりと歯を、それこそ欠けるのではないかと思うほど食いしばり、肩や手の激痛を、気絶してもおかしくないであろう痛みを超えて―――――。

「が……ぐあぁぁぁぁぁ!」

 獣の様な唸り声を上げながら、小雨はクナイの刺さった左手を徐々に、徐々に地面から抜いていく。抜いて、指先の痺れを無理やりに制して、肩に突き刺さっている手裏剣を指先だけで握り締める。気を失いそうな中でも、皮肉な事に寄せて返す激痛が気を失う事を許してくれない。

 深呼吸で息を整え、並々ならぬ鼓動の早さを静めながら、小雨は一気に肩の手裏剣を引き抜いた。尋常じゃない脳内麻薬が流れているからか、思ったよりもその場からスッと起き上がる。起き上がり、立ち上がる。

 老人はふと、少年の表情の変化に気づく。視線の先が自分ではなく、どこか後ろを見ているからだ。何を見てるんだと思った矢先―――――。

「そいつは渡さねえ」

 そこには倒した筈の小雨が、血塗れの左手で佇んでいる。老人は俊敏な動きで後ずさり、しゃがんで手裏剣を小雨に向かって投げつける。だが、のらりくらりと、小雨は幽霊の様な動きで投擲される手裏剣をかわしていく。そうして右手で左手に刺さるクナイを引き抜きーーーー。

「おめぇ……ばけもんか……!」

 小雨のその姿に老人は畏怖からそう叫んだ。引き抜いたクナイを順手に持ち替えた小雨は、音もなく距離を詰めよって老人の右目を斬り付ける。ぎゃっ! とよろめき呻く老人。すかさず一歩踏み込みながら、小雨は老人の顎へとクナイの先端を貫いた。がたがたと体を震わせながら、老人がつい頭を下げる。

「終いだ」

 小雨はトドメとばかりに、クナイをグリグリと捻じ込んでいき―――――勢いよく引き抜いた。老人は赤黒い液体を喉からとめどなく放出し、白目を剥いて地面にペタンと崩れ落ち、動かなくなった。小雨はクナイを放り投げて、一息ついた。自然に、片足が地面に突っ伏してその場に跪く。

「姉さん……姉さん!」

 少年が泣き出しそうな顔で小雨の元へと駆け寄る。小雨の息は荒く、立っているのがやっとのような状態だ。

「俺のせいで……」
「……肩貸せ」

 小雨にそう言われ、少年はどうにか小雨の肩を、結構な身長差はありつつも、小雨が歩ける様に肩を貸して立ち上がる。とはいえ、出血量からして小雨は歩くのもままならない様に思える。だが。

「……この、先に酒屋がある。閉まってても……扉叩け」
「さ、酒屋……医者じゃないのか」
「いいから……連れてってけれ」

 小雨の頼みに、少年は迷いは一瞬生じるものの、小さく頷いた。ずるずると、牛歩の早さではあるが少年は懸命に小雨を救おうとしている。その事が小雨には肌で伝わる。伝わっている。

 不思議だ、と小雨は思う。これまで数えるのはやめた位に人を殺してきたが、こうも見ず知らずの、それこそ名前もさえも知らない人間の為に人を殺したのに不思議な達成感がある。どれだけ久しかっただろう。人を守る為に戦ったのは。

 少年にあの平蔵がいる酒場への介抱を頼みながらも、小雨自身は決して自分が助かるとは思っていない。平蔵……はまだしも「あの男」が小雨をそのまま切り捨てる判断をする可能性の方が高い。し、少年の身柄も預けられるかも定かじゃない。だが、それでも。

「……おめぇ」

 それでも、小雨は最後の力を振り絞り、懇願しようと思う。人を、信じようと思う。この少年を、彼らが救ってくれる方へと。小雨は少年へと尋ねる。そして。

「……名前、聞いてなかったな。おめぇ、名前は」

 少年は小雨に聞かれて顔を上げる。上げて。

「俺は―――――」

 小雨は思う。まだ生きていても良いのなら、今度は―――――守る為に戦うと。



 

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