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念力と大局観

 他人の将棋を観戦しているとAIの示す評価値によって、現在の形勢を割と正確に把握することができる。評価値が突然ひっくり返ればそこで一方が悪手を指したのだとわかる。+9999となれば即詰みがあるとか、+5000ならはっきりと勝ち筋がありそうだとか、+2000なら相当に優勢で勝ちにつながる順があることがわかる。指し手そのものを教えてもらわなくても、現在の形勢が明確に数値として示されるということは、指し手を判断する上で大きな力になると言えるだろう。詰将棋で言うなら、詰むことが最初にわかっているということだ。(詰将棋ならまず間違えないというレベルの詰み筋を実戦ではしばしば逃がしてしまうものだ)

 数字でなくてもいい。「いいのかわるいのか互角なのか」だけでもわかるなら、将棋の指し手は変わってくるだろう。
 観ている者はともかく、実際の対局者はAIの評価値を知ることはできない。(チャンスボールがきていることに気づけず見送って押し切られてしまうことも多々あるだろう)
 ほとんどの対局者は大局観を働かせることによって、常に形勢の把握に努めているのではないだろうか。(中には難しいことは何も考えずただその場その場で思いつく手を指すだけという人もいるかもしれないが)
 現局面の形勢や相手の指し手を評価することなく、正確な指し手を続けることは難しいのではないだろうか。(一手が死角になって評価そのものを誤ることもあるが)

 将棋は本当にわるい局面ではいい手というのは一つもなく、よい局面では必ずいい手が一つ(場合によってはいくつも)あるものだ。よいとわかれば全力で勝ち筋を探すべきで、わるいとなれば後は勝負の綾を求めなければならない。ところが、実際にはわるさに気づけずずるずると負け筋に入ったり、よさに気づけずに勝ちに行ける順を見逃してしまう。
 将棋はわるくなる前に考えなければ駄目だが、大局観がわるければわるくなるということに気づくこともできない。

 次の一手・詰将棋の問題はそこに正解が存在することがわかっていて、(それは間接的に形勢がよいことを示していることと同じで)、実戦ではむしろそこに至るアプローチの方がより重要だと言える。(勿論、手がみえることそのものは大切だ)好手・手筋をいくら知っていたとしても、大局を見通すことができなければ、それを発揮する場所を作ることも難しいだろう。

「一度に何手くらい読むのですか?」
 強さはとかく読みの量で語られやすい。
「まあ普通に100手くらいですか」
 ある棋士は答える。

「そうっすね。1秒で10億手くらいでしょう」
 あるAIはやや控えめに返事をする。
 それは本当に重要だろうか。

「読みがすべてだ」
 とある者は言うかもしれない。
 しかし、すべてを読み切れる人間などいないのだ。

 読まなくてもいいものは読まなくてもいい。
 例えば、一つの局面を一目みただけで、これはこちらがいいねとだいたいわかる。まるで一つの絵画をみて何かを感じるように、数字を持ち出さずとも多くを悟ることができる。(AIの100億手の読みを省略する)そうした能力も、人間の持つ特性ではないだろうか。
 個々の指し手のよしあしにも増して「将棋を理解していること」が大局観を築く上で重要であると思われる。

 強い棋士ほどよい局面で考える。その上で早指しにも強いのは手がみえるということは当然として、大局観がよほど優れていて局面のバランスを保つことができるからだ。

 人間は現在地が正しくわかってこそ強く立っていることができるだろう。夏なのか夜なのか何もわからない迷子となっては不安で仕方がない。大局観が優れていれば、常に自分の居場所がわかるのだ。
 正確な大局観を働かせるためには、コンディション、メンタルが整っていなければならない。
 大局観を曇らせるもの、それは恐怖、畏怖、尊敬、楽観などであり、最もわかりやすく言えば、意表の一手だ。
 道を通ってやってくる者は穏やかに迎えることができるが、突然天井からふっと降りてくるようなものには動じやすい。

「えっ? そんな手が……」

 その時、もしも相手をリスペクトしすぎていたとしたら。みえないところから指し手が飛んできたことを、自分のせいにしてしまう。意表の一手が輝きを持って認められ、低頭になるあまり全体がみえなくなって、大局観はすっかり曇ってしまう。尊敬や恐怖で浮き足立った状態では、冷静に局面をつかむことが難しいのだ。時間の短い将棋ではその傾向は顕著に現れ、気持ちを立て直すことが難しい。
(気合いとか念力とか……)
 早指しの将棋であれば、そういうものが結構まかり通るのだ。
 ずっと正確であり続けられる人はそうはいない。
 気持ちを揺らせられれば悪手も好手に転じるのだ。悪手は後に指すほど罪が重くなる。いい手ではないが相手の気持ちを揺さぶることによって悪手を指させることができる。そういうのを人間の勝負手と呼ぶのかもしれない。

「お前が後手だ!」

 角道を止めると相手は角を1つ上がって向かい飛車にしてきた。そこで僕は右の銀を上がり居飛車と見せかけ矢倉の準備を整えた後に向かい飛車に振った。相振り飛車だ。相手は向かい飛車だったはずがいつの間にか四間飛車に構え直し腰掛け銀から攻めてきた。僕は飛車先の歩を交換し、中段に引き上げた。すると相手は55の地点に銀を進出させ棒銀のように攻めてきた。僕は素直に銀交換を許した。飛車を追い返すと歩を食いながら飛車を右辺に大転回させた。歩を謝りたくないとみたか相手はなんと向かい飛車にして飛車をぶつけてきた。強気だ! 僕は少し動じながらも飛車の頭に銀を打ち込んだ。すると相手は飛車を四間に戻った。僕は角の頭に銀を成り返った。角取りと飛車成りの先手だ。すると相手は一転して角の下に金を上がって受けてきた。角を助けては崩壊するとみて辛抱したのか。これはよくなったぞ。僕は浮かれながら角を取った。手拍子の悪手だ!

 黙って飛車を成れば相変わらず角が負担になりより相手が困っていたのだ。言わば後の先だ。角を取ってしまったために取れたはずの桂に跳ねられ飛車に当たってしまった。今度飛車を成っても空成りだ。その上後手を引くため銀で蓋をされて飛車が捕獲される心配もある。僕は恐ろしくて飛車を成れず、向かい飛車の位置に戻した。優勢だとしても自玉も傷んでおり簡単ではない。徐々によさを広げていくような指し方は、3分切れ負けではなかなか上手くいかない。気合いの面からも飛車は成り込む一手だったのだ。(たとえ捕獲されることになってもそれには銀を空き地に投資しなければならず相手にとってもリスクはある)迷いの内に弱気になると、徐々に駒が下がり指し手ががどんどんおかしくなっていくことがある。気のコントロールが上手くいかないと指し手の方も乱れてしまうのだ。(将棋は技術だけでは語れない)

 相手は桂を跳んできた。僕は角道を通した。相手は桂を起点に歩を打ち込んできた。僕は金をよろけた。桂を取り切ってしまおうという手だが危険な一手だ。だいたい拠点の歩を残して壁金になるような手は危ない。長く受けに回るような展開も3分切れ負けでは勝ち味が薄くなる。(相手玉を詰みまで持って行きにくい)

 相手は歩を起点に銀を打ち込んできた。
「玉の腹から銀を打て」
 それは格言にもある言葉だった。
 いい手なのか……。
 こんな手があったのか……。
 金が助からないのではないか。
 読みになかった銀を眺め、僕は大いに動揺してしまった。すっかり迷子になりながら受けを放棄して角を成り込んだ。丁寧に面倒をみるつもりで金をかわしたのに早速受けをあきらめるなんて、明らかに矛盾している。実際には受けはあった(起点の歩を桂で払うことで逆に打った銀が助からなかった)のだが、想定外の事態に取り乱しているのでみつけるができなかったのだ。

「しまったと思ったらつぶれている」
(自信がある時は受かっている)

 銀を打ち込まれて金を取られた。僕は55の地点に馬を引きつけた。すると相手は中央に桂を成り込んできた。
 何だこの手は?
 完全に取り乱している僕は現在地を見失っていた。だから、相手の指し手はすべてみえないところから飛んでくる。素直に応じては攻めがつながると思い、僕は飛車取りに香を打った。もしも僕が冷静で、自分の引いた馬の価値を正しく理解できていれば、成桂を取り切って美濃崩しの桂で寄せることを含みに攻防を組み立てることができただろう。
 相手は飛車取りを手抜いて成桂の横に銀を成ってきた。

 何だこの手は?
 詰めろじゃないか……。
 突然、自玉に詰めろがかかった。
 僕は玉を左辺に逃げ出したくて成銀を払った。(同じく成桂とそっぽにいけば逆に玉をかわしていくという読みだ)相手は金を取り返すこともなく、玉のこびんから金を打ってきた。
 王手だ!
 あっ、詰んだ。3手詰みだ。(上手く助けようとすると詰んでしまった)投了もやむなし。

「くやしいじゃろう」
 ああ、棋神さま!
 くやしいも何も、簡単に負けすぎだろう。
 こんなことになるならもっとどんどん逃げ出すんだったよ。
 52手目に成れなかった飛車は、最後まで中段に浮いたままだった。


#負けました

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