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ちょんまげの失敗 ~玉頭のデュエル

 人間は社会的な生き物であると言われる。心の健康を保つためには人とのつながり、コミュニケーションも大切であるらしい。鴉が夜明けを告げる頃にも、将棋ウォーズの世界では活発な対話が繰り返されていた。


「よろしくお願いします」

「僕は振り飛車でいくぞ」

「だったら私は居飛車でいこう」


 僕は三間飛車で、相手は居飛車できた。


「ふふ三間飛車か」

「恐れるがよい」


「ふん、誰が恐れるものか」


 相手は角道を止めた。僕は美濃囲いを急いだ。


「石田にしたければするがよい」


「別に石田に執着はしないよ」


 相手は飛車先を一つ突いたきり保留している。そうした時、僕はいつも迷いの中に置かれることになる。石田流は魅力的だ。しかし、相手はそれを少しも嫌がっていない様子だ。むしろ歓迎しているようでもある。もしかしたら優秀な対策を用意して待ちかまえているのではないか。それならそれでそれを体験することもわるくはない。もしも、次も突いてこなければ、石田流に組むことにするか。そうしたことを毎回、考えながら三間飛車を指している。居飛車党の相手も、すぐに飛車先を伸ばしてきたり、ずっと突いてこなかったりと様々だ。


「私は位を取ってやろう」

「だったら石田に組んでやるぞ」

「ふん、石田が何だと言うのか」


「恐れるがいい」

「石田の飛車より、私の角の方を恐れるがいい」


 相手は一度止めた角道を通しながら取った位の下に角を据えた。


(44角)


 角というのは、できるだけ真ん中にいた方が「利き」が増えてよく働くものだ。石田流の76飛車よりも脅威になるという話にも一理あった。その睨みが、端や玉頭に利いて僕は恐ろしかった。完成させた石田流のことは置いといて、美濃のこびんを開けた。


「矢倉に組み替えるぞ」

「ふん、隙あり!」


 相手は僕が突いた歩に対していきなり歩をぶつけて仕掛けてきた。同じく歩。ここはおとなしく収める他はなさそうだ。


「いいでしょう。どうぞ一歩交換してください」

「これはありがたい」


 角を追い返し銀を立つ。すると相手は玉頭の歩を伸ばしてきた。一歩渡したことを考えると、端攻めが恐ろしくなった。矢倉ではなく、金冠というのはどうだろうか。僕は矢倉から更に囲いを発展させるため玉頭の歩を突いた。


「手厚くしてやる」

「隙あり!」


 相手は間髪入れず玉頭の歩を突いて仕掛けてきた。既にその時には角銀桂という攻撃の陣が玉頭に整っていたのだ。取れない……。(玉頭に突かれた歩を取れない時はだいたいまずい。これは玉頭戦における基本だろう)やむなく僕は、ちょんまげの下に金を運んだ。傷はできるが戦いはこれから。


「金冠をつくらせてもらおう」

「許さぬ!」


 相手は玉頭にぶつかった歩をそのままにして、その隣に歩を合わせてきた。(高段者の証だ)玉頭に拠点を築かれることを甘受して乗り切ろうとした読みは、完全に崩壊した。


(合わせ歩の手筋)


 その歩を取ると銀が進出して、玉頭ちょんまげ地点に角銀歩が集中して寄ってしまう。やむなく僕は最初にぶつかった方の歩を取った。


「許してください」

「そうはいくか!」


 相手は歩を取り込んだ。同じく銀は銀が詰んでしまう。(銀をかわすのが勝った)僕は同じく金と応じた。まだどこかで落ち着くことを願っていたが、現実はもっとシビアだった。


「少しゆっくりしませんか」


 相手は聞いていないようだった。激しくなるほどに、左辺の石田流が置き去りになってしまう。


「ここは私の戦場だ」

 相手は金頭に歩を打った。


「そうか……」


 拠点をつくられながら攻められるんだな。読みを超えて繰り出されるパンチに疲れながら、金をよろけた。


「これでどうだ!」

 相手はよろけた金の頭に桂を跳ねてきた。


(銀が詰んだ!)


 玉の側にまだ運べずにいた金が銀の退路を封じていた。

 強固に発展させようとした銀がはがされてしまうことは痛すぎる。拠点が残った上に、駒損して囲いが乱れ金駒を渡してしまった。勢力で優位に立てば、玉頭戦は押していくだけでいいのだ。


「とても勝てる気がしない」


「思い知ったか!」


 以下の相手の指し手も鋭く明快で、どんどん前進してくる駒に何もすることができなかった。左辺では石田流の飛車がしょんぼりと残ったままだった。(さばきの機会は永遠に訪れない)囲いの陣が崩壊してしまえば、石田の陣も同時に崩壊してしまう。堅さ、囲いの安心という大義がなければ、強いさばきは成立しないのだ。


「負けました」


 圧倒的な大差で夜明けのウォーズは終わった。

 対話の終わりには、口惜しさが残っている。

 僕はもっと陣を学ぶ必要があった。

 美濃がどうやって崩れるか、どうやって修復するか、三間飛車がどうやって攻略されるか、石田がどうやってさばけるか、エルモがどうやって崩れるか……。すべては陣を知ることから始まるのだ。そこには序盤も終盤もない。なぜなら、陣はどこまでもつながっているのだから。


「ねえ、棋神さま。そうでしょ?

 美濃も石田もエルモもミレニアムも……、

 陣はつながってますよね!」


「今は忙しい!」

 また今度にしろと棋神は答えた。




#陣




●陣を知ること ~築いた時から始まっている


 序盤なんて知らない。早く終盤になればいいのに。定跡なんて関係ない。詰めチャレばかり解いて強くなってやるんだ。そう考えている棋士もいるのではないか。だけど、名人も言うようにどんな将棋も必ず序盤から始まるもので、終盤までいく前に終わってしまう(大差になってしまう)ことも少なくはない。


 僕は酷い負かされ方をした局面は、必ず振り返って反省するようにしている。(一方的に負かされるのは自分の方に明らかな悪手があるので反省も容易だ)間違えたところを写真に撮って、また次の日に見返すこともよいだろう。指し慣れた展開に比べて、経験の浅い局面では悪手が出やすくなってしまう。


「陣を知ること」


 それが大事ではないか。初見の形を少なくしていくことが、序盤の進歩につながると考えた。陣はつながっている。みんなどこか似ているし、つながっているところがある。多くの陣に触れることによって、応用力がつくはずだ。

 こういう形はここが急所、こうして崩れ、こうして詰むのか……。序盤の研究をしているはずが、気がつくと「終盤」になっていることがある。そして、序盤のセンスと題したアルバムに終盤の寄せの写真ばかりを保存している自分に驚かされたこともあった。


「もうすっかり終盤じゃないか」

(囲いは崩壊の始まりだ)


 序盤の囲いは、簡単に詰まないために囲うものだ。つまり、それは終盤を見据えているということだ。どんな囲いも終盤に行き着くことを避けられない。囲いの築き方も、崩し方もつながっている。序盤と終盤を切り離して考えることはできないのではないか。あらゆる陣は序盤から終盤まですべてつながってできている。


「築いた時から始まっている」

 陣を甘くみていると終盤まで競ることも難しくなってしまう。


 

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