![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/42856075/rectangle_large_type_2_49fcfcc4572de378b1dbde68c8b027d7.jpeg?width=1200)
あるヨーグルトの夜(がんばったところでがっかりする話)
数あるヨーグルトの前に立つ時には迷いがある。どれでもいいように見えてもそれぞれにこだわりがある。正解のない棚には躊躇いを広げる時間がある。その時々にある気分と理想がある。選択の余地と悩める自由は幸せの内にある。ありふれて見える物の中に目立って高い物を見つけることもある。他とは違う何か、特別に強いパワーみたいなものがあるのだろう。(これにしてみるか)最初は高くつくけれど、頑張ればよいこともあるだろう。ちょっとずつ食べていこう。そして私はある1つのヨーグルトを手に取る。
家に帰ってヨーグルトの外蓋を開ける。上に張りついた紙をめくる。
「こ、これは……」
箱に対して7割も入っていないのではないか。
高いのはいい。それは最初からわかっていたこと。
しかし、その内容量は?
私たちはそれをグラム表示で確認したり、手に取った重さで感じなければならないのだろうか。
腹立たしいのは、頑張ったところでがっかりさせることだ。
箱を開けてから(がっかりする人)がいないように、ヨーグルトの箱は駅構内のゴミ箱のように可視化してほしい。
そんな願いを強く抱く夜もある。