部活動の意義
4年前の春、コロナのせいで学校が休校になってしまった。私の仕事は、高校生と大学生の部活動の中でトレーニング指導をするのが、ほぼ全てだったので、いきなり仕事が一切無くなる状態だった。それでも、ZOOMなるものを2週間で覚え、全ての指導先のチームでオンラインによるサポートをさせてもらう事ができ、仕事が無い状況だけは避ける事ができた。
しかし、私なんかよりもコロナの影響を受けたのが、まさに指導先の選手達だった。
2020年4月下旬、全国高校総体が中止になる公算が高まるとニュースで流れた。全国中学校体育大会も中止する方針であると。
こうなると、夏の高校野球大会も中止になる可能性が強いかもしれなかった。20年ほど、高校野球部のトレーニングをサポートしていることもあるのだが、選手たちの気持ちを考えると言葉がなかった。
私の娘も、中学3年になった矢先の事だった。ミニバスの頃からバスケの魅力にとりつかれ日々練習や試合に明け暮れてきた。チームは決して強くはないし、娘も凄い選手でもなんでもない。が、この休校期間中でも、自分で走ったり、ドリブルの練習をしているのを見ていると、なんとも言えない思いしかなかった。
全国の各地で、試合や大会に向けて、それぞれのカテゴリーの中で、そして、それぞれの環境の中で、日々目標に向かって練習している選手たち。そんな選手たちが目指すべき大会がなくなったら、どれほど悔しいことか、どれほど残念なことか。
そんな、選手たちに、今、何を語れるのか。オンラインでの指導を始めて、彼らの顔を見ることはできている。そして、私のオンラインでのつなたいセッションに真摯に取り組んでくれている。そんな彼らに、私は何を目指せと言えるのか。自問する日々が続いた。
誰も経験したことがない状況、そんな中、正解など、もちろんなかった。
しかし、ひとつ私の中で拠り所があるとしたら、そもそも部活動は何のためにやっているのか? という問いである。
その問いへの私の答えならあった。
それは、私がこの仕事をしている原点とも言えるものだったのだ。
38年前、私は高校1年生だった。そして、東京都立東大和高校の野球部の門をたたいた。当時の東大和高校は都立の星と呼ばれる強豪チームだった。監督だったのが、故佐藤道輔先生である。
『甲子園の心を求めて』(報知新聞社刊)という、当時の高校野球に携わる先生方のバイブルとしても読まれていた本を書いていた佐藤先生。
そんな、佐藤先生の教えは一言で言えば、「練習するグラウンドが、君たちの甲子園だ」 となる。先生は常々、高校野球は部活動の一環、つまり、教育の一環に過ぎないのだ。だから、日々の練習の中で、野球を通じて、仲間を通じて、自分自身を成長させるものである。だから、野球が上手いこと、勝つことよりも、人として誠実であるとか、なにごとにも全力でぶつかることであるとか、仲間を思いやることとか、そんなことができる選手になって欲しいと。
我々同期が卒業間近のとき、こんなことを話してくれた。
「君たちは、今、人生をマラソンで例えたなら、国立競技場を出たばかりのところだよ。俺なんかは、正念場の30㎞あたりを走っているんだよ(当時47歳)。どうか、野球部ではレギュラーになれなかったとしても、人生のレギュラーになって欲しい」と。
この時、教えて頂いた佐藤先生の言葉は、私が指導者として学生に携わる原点になっている。そして、奇遇にも、指導先の高校野球部の先生にも、佐藤先生の『甲子園の心求めて』を読み、先生になった方がいる。
その先生は、現在、卒業する3年生に向けて。こう伝えるのだと言う。
「目標は甲子園、でも野球をやる目的は、いい男になるため」と。
もしかしたら、ほとんど、全てのカテゴリーの選手たちにとっての、青春を賭けてきた大会が無くなるかもしれない。それは、もちろん、悔しいことだし、残酷なことである。しかし、目標はなくなるかもしれないが、目的は、一番大切な、野球をやる、バスケをやる目的には、大会がなくても近づけることはできるのだと、そう自分に対する答えを出した。
少なくとも、その時の私には、そこにしか拠り所はなかった。
しかし、あれから4年経った今ならはっきり言える。
部活動の意義は勝つことではない。
勝つことを目標としたならば、その過程こそ大切なのだと。
そして、今でもなんとか学生達と共に目標に向かっていける場所にいられる事に感謝しかない。
部活をやれる事は当たり前ではない。
あの4年前の気持ちをもう一度思い出して、目の前の選手たちに向き合おうと思う。