【バーンブレイバーン第一話感想】ロボットへの信頼とパロディと
第一話の感想
ほんとに最高だった!!!!!1!!!!!!!11!!
展開が熱いし笑えるしでさっぱり感情がまとまらない。
最高。
以上です。
パロディとしてのロボット
本編第一話の内容そのものが素晴らしかったのは疑いようがない。
これから物語がどう転んでいくかは分からないが、たとえストーリーがどうなろうとも、少なくとも「第一話は素晴らしかったぞ…」と10年後くらいは言い続けているだろうという予感があるくらいだ。
なので、ここからは個人的な非常~~~~~~~~~にどうでもいい話を始める。
それは「パロディとして描かれるスーパーロボット」についてだ。
結論から先に言うと、自分はスーパーロボットがパロディ的に扱われるのがあまり好きではない。
たとえば、全然ロボットとは関係ない作品に往年のスーパーロボットっぽいモノがパロディ的に出て来た!すごい作画で変形した!合体した!〇〇っぽい必殺技を決めた!みたいなパロディ回。
そりゃあそういうパロディ回は大抵すごい作画でロボットが動いてくれるから、ちょっとキャッキャしてしまうけれども、面倒くさいオタクとしての自分は「だからなんだ」と冷めている部分はある。
(※ロボットアニメの歴史は長く、80年代には既に幼少期にロボアニメに慣れ親しんだ層によるある種のオマージュと再生産が始まっていたという。だからこういう面倒くさいやつも40年以上前には存在したと思われる)
何故そんな捻くれた感じ方をしてしまうかと言えば、一言で表すなら「スーパーロボットを信じたいから」だ。
つまり、スーパーロボットは、その作品内において生じた何らかの課題を解決したり抗ったりするために考えられた、"真面目な"ガジェットであって欲しい。
現実の科学的にはどんな無茶苦茶な理屈であったとしても、その世界においてはどんなファンタジーな理屈付けでもいいから説得力を持つ存在であってほしい。切実に望まれる力であって欲しいし、有効なモノであって欲しいし、なにより救いであって欲しい。
それが、ロボットの力を信じようとするという営みだ。
デカいロボットが大真面目に運用されている作品を鑑賞して、時に感動し、時に泣き、心の底から「このロボットは強いんだぞ!何故現実にはないんだ!」と錯覚するためには、その世界に住まうキャラクターたちと同様に、画面のこちら側で作品を鑑賞する我々もまたロボットというガジェットが持つ力を"信じる"必要がある。
(※これを逆手にとって面白さに繋げた作品も少なからずあるけど…)
そしてその信頼感は、たとえばデザインであったり、画面の中での活躍であったり、演出であったり、時に文芸設定によって支えられていたりする。
ただし、それらによって醸成される説得力・信頼感を共有できなくなってしまえば、ロボットというガジェットはただガワだけが残ったパロディでしかなくなってしまう。その形に、大きさに、強さに、説得力を持つ存在としては描かれなくなってしまうということだ。
だから(あまりにも主語がデカいことは承知しているけど)敢えて言うのなら、パロディとして描かれるロボットというのは概ねそういうモノだと思 っている。
なんなら、パロディで出て来ただけでギャグだとか言われてしまうこともあるし、それを狙って登場させられることもままある。あるよね?
(それはそれで面白ければいいのだけど!)
大張監督とロボット
我ながら本当にどうでもいい前置きが長くなってしまったが、書きたかったのはここからだ。
ここまで散々、ロボットを信じたいだの、パロディがどうだのというお気持ちを垂れ流して来たが、ここでようやくブレイバーンの話に繋がってくる。
キーワードは他ならぬ「大張監督」だ。
もちろんロボアニメファンで氏の名を知らない者はいないだろう。
そして特にロボアニメが好きでなくとも、氏の描いたスーパーロボットを観たというアニメファンも少なからずいるはずだ。
何故なら、ロボアニメ以外においても、数多くのスーパーロボットパロディを描いて来た第一人者こそ、まさにバーンブレイバーンの監督である大張正己監督だからだ。
自分は氏の描くロボットが大好きだ。氏が作画監督を務めた作品を見た回数は数えきれないし(本当に数えきれない)、直々に監督を務めた「銀装騎攻オーディアン」も何周も見たか分からない。嘘だ。恐らく4周くらい。早くスパロボに参戦してくれ。頼む。
だから、スーパーロボットの最前線に立ち続けて来た一人たる大張監督が、めちゃくちゃ軽いフットワークで数多くのパロディを手掛けて来たのは、面倒くさい上に見識の狭いオタクとしては、ちょっと残念だったというか、ロボアニメ文化を茶化しているように見えてしまっていた節もあった。もちろん映像としてはめちゃくちゃカッコイイからなおさらだ。
スーパーロボットというガジェットの持つ力は、もはや氏の表現力をもってしてもただのパロディとして扱われてしまうのかと。
だけど、バーンブレイバーンの第一話を見て、そういう見方がまるきり変わった。
見方が変わったというか、「全てはここに繋がるのか!!!」という感動すら覚えた。
それはこの時代にスーパーロボットをお出しするロボアニメとして、ブレイバーンの扱い方と話の落とし方が完璧だったからだ。
バーンブレイバーンで結実した表現
バーンブレイバーン第一話では、人類は突如として宇宙より飛来した敵兵器によってなす術もなく蹂躙されることになった。戦闘機も攻撃機も戦車もTSも何もかも無力だ。主人公もまた、一流のパイロットでありながら敵に対してほとんどなにも出来ないままに殺されかけてしまう――――
そんな絶望的な状況の中で、ブレイバーンは、正真正銘、その世界における"力"であり切実に欲された"救い"として姿を現した。カッコ良すぎた。思わず泣いた。
これは、作り手自身がスーパーロボットの力を信じていなければ、そして視聴者に対して信じさせるように描いていなければ、絶対に成立し得ない活躍だった。スーパーロボットというガジェットの持つ力を、なんの説明もなしに映像の力だけで茶化すことなく描いてみせたのだから!
それが成功したのは、第一話前半でTSと呼ばれるリアルロボットたちが、現行の人類が持つ軍事的枠組みの中できちんと有効な存在として描かれていた影響も大きいと思う。
ブレイバーン登場からのカタルシス、そして未知のロボット兵器としての説得力を支えているのは、理不尽なまでの圧倒的な暴力で人類が積み上げて来た技術の産物がなんもかんもぶっ壊されて蹂躙される様であって、それ単体で十二分にリアルロボを描けるほどに煮詰められた物語前半の描写なのだ。
これはまさしくロボットアニメだ。真面目過ぎるくらいにロボアニメだ。ブレイバーンが剣を取り出す辺りはもう感涙しながら見ていた。
ただ、その一方で、ブレイバーンの歌には爆笑した。なんだあれは。しかも主人公からもツッコミが入るのはズルくないか。
実際、あとでTwitter上で感想を眺めてみたら、あのシーンで笑ったという人はめちゃくちゃ多かったし、恐らく誰しもそうだっただろうと思う。
ロボアニメ的にめちゃくちゃ熱い展開を全く茶化すことなく描いておきながら、同時に笑うしかないようなギャグを突っ込んでくるスタイル。これはまさしく一流のパロディだ。
そして、腑に落ちた。この奇蹟的なバランスが成立し得たのは、まさしく大張監督がパロディの文脈においてもスーパーロボットを描き続けてきたからだ、と思ったからだ。
今の時代のアニメにおいて、スーパーロボットはどういう風に受け止められるのか、どういう方向性でのギャグ性を持っているのか、話題性があるのか… それらの要素を把握していなければあの一話は成立しないだろう。
ブレイバーンがああやって最高のギャグをやってみせたからこそ、今週はブレイバーンの話題がネット上を飛び交い続けていた。最高にキャッチーなスーパーロボットの使い方だ。
これはまさしく、以前から数多くのロボットアニメに携わりながらも、一方で非ロボアニメの界隈でも記号としての"スーパーロボット"パロディを積極的にこなしてきた大張監督だからこそ、この第一話をキャッチーなモノに出来たんじゃないかと。そう、納得するしかなかった。
ブレイバーンというガジェットを使って、第一話を熱く・笑えるオチでまとめてみせたのは凄い判断だったんじゃないかと思う。そうでなければ、マニアの間だけで話題性は完結していたと思うからだ。
つまり、現代のアニメにおける古典的なスーパーロボットの演出の限界と、出てきた場合の文脈と、強みを、それぞれ完璧に使いこなしたのがこの一話だったと感じた。
スーパーロボットの魅力を信じていなければただのパロディとギャグを演出する記号として消費するだけになってしまうし、逆に信じすぎていればハイコンテクストでマニア向けに終始していただろうし…
そういう意味で、ブレイバーン第一話は素晴らしく計算され尽くした面白さだったのだろうと思う。
もちろん大張監督一人で全てを決めているはずはないけど、それにしたって大張監督が監督でなければ有り得ないバランス感覚の上に成り立つ一話だったのではないだろうか。
現に、このしがないロボットアニメファンのロボアニメ観を変えてくれるくらいには、本当に素晴らしい一話だった。ここ数年、ロボアニメの一話でここまで心を動かされたのは初めてだった。
感想は以上!
この後の展開がどうなるかは分からないけど、とりあえず明日の第二話を楽しみにして待ちたいと思う!
イサミーーーーッ!!
【2024/01/19 第2話を見て追記】
いやいやいや… ブレイバーンくんがここまでネットリしたやべーやつだったとは聞いてない!!!!なんだこのアニメは!!!1!!!!(褒め言葉)