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2021.07.18

1年前の今日のことは衝撃的すぎて、今でも鮮明に憶えている。

三浦春馬は芸能人で一番格好いい人という認識で、ブラッディーマンデーは毎週テレビにかじりついて観ていた。しかし、その後テレビ離れしていった私は、エンタメとか芸能人に関心がなく、三浦春馬のこともその後の作品もよく知らなかった。

あの日をきっかけに三浦春馬の作品や情報を狂ったように探し回った。芸能人だしイケメンだし、今時のチャラチャラした人なのかと思っていた。しかし人柄を伺えるエピソードはその真逆だった。初めはそんなエピソードもなかなかピンと来なかった。しかし出てくるエピソードはどれも相手が誰だろうと別け隔てない、見返りを求めない優しさがあった。またFNS歌謡祭で、郷ひろみと「言えないよ」を唄っている姿を見て、直感的にこの人いい人だなと合点がいき、三浦春馬ってこんなにカッコよかったんだと気付いた。
失ってはならない人を失ったこと、周りをいつも気遣うような人に限って守られなかったこと、未来を具体的に考えていたのに志半ばで去ることになったことは受け入れがたく、接点のない芸能人の話なのに悔しくてたまらなかった。その思いは日に日に強くなり、こんな人が絶望する社会にも、三浦春馬の活躍を知ることなく、惰性で生きている自分にも辟易した。自分の中の大事な一部がなくなったみたいな感覚だった。

段々と三浦春馬から春馬くんに呼び方が変わっていった。春馬くんのことはよく知らないけれど、ゆずのファンってことはなぜか知っていた。当時三浦春馬の洗練さとゆずの素朴さとに乖離を感じ、違和感を覚えたものだった。
見た目の華やかさとは裏腹に芸能人ぶらない素朴さを持ち、不思議なことに弱い立場の人のことも慮ることができる人だと知った。日本の伝統工芸を自ら足を運び取材していたことも知り、意外性と同時に共感を覚えた。
若手芸能人のトップ集団にいながら努力に努力を重ねる姿勢や、プロ意識をもつところは、生きる世界は違えど春馬くんの爪の垢を煎じて飲みたいところだ。その一方、器用なのか不器用なのかよくわからないところは興味と親近感がわくと同時に、応援したいと思わせられる。

でも今更気付いてももう遅いんだと思い知らされ、考えても答えのないことを堂々巡りする日々が半年以上続いた。ファンの人の「もっと以前からその熱量で応援してくれていたら、何かが違っていたかもしれないのに」というコメントをどこかで見た。後発のものが今更気付き、称賛したところでファンの人を傷つけるだけなのかもしれない。
しかし、なかなか立ち直れない日々を何とかしないとという思いと、春馬くんが閃光の如く放った輝きをどうしたら輝き続けることができるか、今からでもできることはないのかという焦りがあった。
陰謀論で騒いでる人って、三浦春馬のファンではないんだろうなと思い始めた、たぶん天外者の上映が始まってしばらくした頃だ。

自分にできること、結論として春馬くんの足跡や思考の中で、気に入ったものは自分の人生に取り入れたり、小学生みたいな文章でもたまにでもいいから春馬くんを語ることかと思い、noteを始めることにした。同時に時間に余裕があった時期であったため、行ける限り天外者と森の学校に通った。それにより春馬くんに対して何もできなかったという後悔が勝手ながら少し和らぎ、少しずつ前に進めるようになった。


生き物は肉体がなくなったら、無になると思っていた。でもあの日を境に、ひょっとすると魂というものは本当にあって、今の私では想像できないような世界の中で存在し続ける、肉体的な死は分岐点に過ぎないのではないかと考えるようになった。

春馬くんが次なる世界で好きなことやって、充実した暮らしの中でどうか幸せでいてほしいと心から願っている。ちゃんと守られていてほしいし、安心できる環境にいてほしい。

まだまだ見切れていない春馬くんの作品や日本製のコーナーがある。ゆっくりゆっくり見ながら、残りの人生を豊かにしていこう。