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長崎次郎書店、長崎書店と保岡勝也⑤誰が保岡勝也に設計を依頼したのか


なぜ熊本に保岡勝也の作品があるのか

 「誰が、どんな経緯で保岡勝也に設計を依頼したのか」についても、いくつかの説がある。ここでは3人を紹介し、さらに4人目の人物である可能性を考えていく。

長崎庄平説

 株式会社長崎書店の長﨑健一社長が平成26年(2014年)、地元のラジオ番組に出演した際には、長崎次郎書店の2代目の長崎庄平が東京に出張した折、保岡の建築に惚れ込み設計依頼を決意したと述べている。以下に出演した時の内容が記載されている。

長崎仁平または長崎次郎説

 昭和49年(1974年)の熊本日日新聞には以下のように書かれていた。

長崎屋は骨董店と書店を兄弟で別々に経営していたが、そのどちらかの主人が東京神田にある書肆「富山房」の建物を気に入り、その設計者が保岡であったことから設計を依頼したらしい。(原文ママ)

長谷川堯.「家は生きてきた 熊本の洋館・和館めぐり」.熊本日日新聞.1974年1月9日,夕刊2面

 ここで書かれている「別々に経営していた」兄弟とは、書店の主人が長崎次郎、骨董店の主人がその兄の長崎仁平である。
 保岡勝也の設計により富山房が建てられたのは大正2年10月だが、仁平は明治41年に亡くなっているため、富山房を見て気に入ったのが仁平ではないことが想像できる。
 そして次郎は大正2年12月25日に、次郎の跡を継いだ長崎次郎書店2代目の庄平は大正13年4月22日に亡くなっている。いずれも大正13年7月に描かれた保岡による長崎次郎書店の図面以前のことである。どちらかが依頼をしていたが、図面の完成を見ずに亡くなったとも考えられる。
 しかし調べていくと、ここでは名前が挙がっていない4人目の人物、長崎茂平の可能性もあるように思えてきた。

長崎次郎

長崎茂平説

 長崎茂平は長崎仁平の三男で、長崎次郎の甥にあたる。長崎次郎の養子となり、熊本市上通町に長崎次郎書店支店を開設した。これが現在の長崎書店の起こりである。
 そもそも次郎には庄平という息子がいたにも関わらず、なぜ茂平を養子に迎えたのか。長崎次郎株式会社の長﨑圭作社長によると、庄平が「病弱だったか何か」が理由だったようだ。庄平を長男、茂平を次男と呼び、庄平が二代目長崎次郎となった。しかし庄平は現に49歳で病気で亡くなっている。

長崎次郎を中心に、後列左が茂平、右が庄平

 ここで茂平に関する興味深い記述を紹介する。

当時では珍しい東京専修大学の卒業。研究心が強い人で、とくに建築趣味はくろうとはだしだった。大工たちが出入りしては教えをこうたほどだ。

「熊本年鑑 第21巻 昭和43年」.熊本年鑑社,1968,p.120.

 保岡の設計による「富山房」完成の翌年、大正3年には「保岡工学士」の設計により、茂平が任されていた長崎次郎書店支店(現 長崎書店)が大改修工事を行っている。「富山房」を見て、長崎次郎書店支店の改修工事と長崎次郎書店の設計を依頼したのは茂平だった可能性もあるのではないかと想像している。

「富山房」とは

 ここまで「富山房」と記してきたが、これは東京都千代田区神田にある現在の「有限会社冨山房」のことである。冨山房については後日、改めて紹介する。


今回の掲載写真について

 先日、長崎次郎株式会社の長﨑圭作社長とご家族にお話を聞く機会をいただいた。熊本で「長崎次郎」の名前は有名だが、写真は初めて拝見したため、撮影と掲載の許可をいただいた。

長﨑次郎株式会社 長崎圭作社長
長崎次郎喫茶室にて

<参考文献>
「熊本年鑑 第19巻 昭和41年」.熊本年鑑社,1966,p.154.
「熊本年鑑 第21巻 昭和43年」.熊本年鑑社,1968,p.120.
出版タイムス社 編.「日本出版大観」.出版タイムス社,1931,p305.
人事興信所 編.「人事興信録 5版」.人事興信所,1918,p.な122.

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