何が見えていないんだろうといつも思う
有難いことに沢山の学びの中に居られていると思っています。youtubeのことを研究したり、twitterのこと、今作っている動画の内容に関わること。
全く知らない時点では、youtube登録者1万人なんていけるだろ、と思っていましたがまぁ難しいというか雲を掴むような五里霧中感です。そもそも有名な人がバズるんだろ、そういう人は元々才能があってそういう星の元生まれてきているからいくら技術を学んだとしても太刀打ちできないでしょ、と脳内が騒がしくなります。
何かをやろうとして、最初に思い描いていた姿は遠くから見た景色で、実際にみると汚く辛いこともあります。動物園で見るパンダってかなり汚いですよね。そして、更に学んでいくとその一つ進んだはずの認知が陳腐だと気付かされて、ひとつ階段を昇ります。
こういう学びの過程って、認知の外を見るみたいな作業だと思うんです。Aを見ている時、必ずBは構造上見えないようになっていたり、AとBが後ろに来た時にしかCが見えなかったり。これらのようなパターンと言うか、パズルのような認知の枠組みがそもそもにあるんだと思います。AからBに移行するまでに、膨大な失敗をして、視点を変えて、情報を沢山募って、中々次のステップ行かないな、そろそろ行くだろ、ああー限界なんだけど、もう本当に限界だけど?、あ無理、くらいで次の認知に移行できる、みたいな感じです。昔の話ですが、長野に住んでいた際にはこの流れが極端に遅く、かつその際にかかるストレスが尋常ではありませんでした。この認知の外を見る作業は、自らの大切にしてきたこだわりを外に放りだすような、可愛い子供を旅に出させるような、そんな生みの苦しみです。
このパターンが理解できるようになるまで非常に苦しみました。努力の仕方が分からなくて、ひたすらとかがむしゃらにもなれない。他の人はなんだか格好良くひたむきに取り組んでいる。失敗も楽しそうにしている。このゾーンに嵌っている人は多いと思います。
認知の歪みを是正する作業とでもいえそうな現象なんですが、最近はそのスパンが短くなってきていると感じます。柔軟性が上がったのでしょう。何故か何もわからなくても笑えています。
まぁいいや、とか、とりあえずね、って自分に言って、進んでいくのが良いんだと思います。
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