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本当の絶望は希望っぽい見た目をしてるんじゃないの

前書き

暫く更新が途絶えてしまっていました。言い訳を述べると、オーディブルのせいです。本をナレーターが読んでくれるサービスで、最近はミステリー小説を日がな1日聴いています。こいつが中々に厄介な代物で、簡単に頭を使わずに作品を消費できてしまうので、必然的に読書する時間が減ります。そうすると書きたい意欲は減少するのです。まぁ言い訳です。
初めてオーディブルで聴いた小説は呉勝浩さんの「爆弾」。面白いですねぇ。「無敵」な人と「正義」の接する点は、誰しもが抱える愚かさ。上っ面1枚とってしまえば人は皆同じムジナ。そんなことを言われたような気がしました。

サイレント絶望の正しい人

社会は今日もそんな爆弾魔予備軍はいません、みたいな顔をしてみんなで運営されています。その全体主義感なのか、教室の中の正義のような、不文律が幅を利かせているなと思っているのですが、多分、そこにはのっぺりとした「正しい人」による絶望が広がっているんじゃないかと思うんです。
どういうことか話します。
「正しい」人は、キチンと信号を守り納税をして、ちゃんと隣人の顔を覚えずに宅配ボックスを使い、満員電車で席を確保します。社会規範に従うことはもう体に染みつき、今度はそれを誰かにまた教える側にすらなっています。社会も家族も会社も止まることを許しません。皆、濁流に飲まれます。泥に流されていたってどこまでだってポジティブです。ユニクロのCMみたいな全方位への正しさを持ち合わせています。何かの歌詞で「行列後ろ的価値観」という言葉があって、的確な表現だと思います。それは紅白歌合戦を見て「いい年だったなぁ」って言う人です。心象風景の世界ではそれらの人は皆ニコちゃんマークのような口角を上げるだけの笑顔が跋扈しています。
「正しい人」は社会のために役割を果たす人々、とも言えます。
僕から見ると、きちんとその全員がサイレント絶望をしているような気がします。何かを訴えたいのに、言葉にすることができずに、笑顔を振りまいて今日も労働に明け暮れているように見えています。

何故そう思うようになったのか

社会の95%を批判したようなことを書いてしまいましたが、僕の心中にあるのは多分「皆と同じになれねーなクソ」です。もう少し言うと、もっと社会と馴染みたい、の裏返しでしょう。
皆で仲良ししたい、でも出来ない、それなら皆が畏怖する怪物として生きるしかない、そんな感じな気がします。まぁ怪物程の力が無いので毎日コツコツやっているのですが。まぁ自分が凡であることを認めつつ、非凡にいつかなれるようにしたいです。


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