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越川芳明 

オアフ島の家具探し

僕はオアフ島に着いた日に、ゼロから巣作りするツバメみたいに、アパートのための家具を探しにいくことにした。

アパートは何しろ「家具なし」で、部屋は伽藍堂がらんどうで何もなかったからだ。

マノア地区のスタバの前にある停留所から市バスの六番に乗り、アラモアナ・ショッピングセンターをめざした。

バスがサウス・ベレタニア通りを左折してケーアウモク通りに入ったところで降り、そのままサウス・ベレタニア通りを半ブロックほど歩いた。

あらかじめネットで調べておいたとおり、そのレンタル家具ショップは簡単に見つかった。

ショールームには、ソファやテーブルやベッドなどの家具が所狭しと、エレガントに飾られていた。

僕は客のいない展示スペースをひと通り見てまわり、見当をつけてから、奥のほうから出てきた中年の男性に英語で声をかけた。

その男性はアジア人らしい顔で、カジュアルな服装をしていた。僕は顔つきから韓国系の人だと踏んだ。

「ベッドとソファーを半年間レンタルしたい。それと、小さなダイニングテーブルと椅子がほしいんだけど。どうせ一人暮らしなので、食事と簡単な仕事ができる小さなテーブルでいい」

僕がそう言うと、男性は久しぶりにあった従兄弟いとこみたいに、こちらが気持ちを許してしまいそうな笑顔を見せた。

話し方もそれほど押しが強くなく、営業マンらしくなかった。

店長でダッグと名乗った。

「車がないから、自分のところまで運んできてほしい。返すときも取りにきてもらわなきゃならないけど……」

僕がそう言うと、ダッグはそっとうなずき「もちろん、大丈夫です」と答えた。

そして、「いいプライスだしますよ。ひと通りほしいものを教えてください」と言い交渉に入った。

「お一人ならば、このテーブルがいいでしょう」と、二脚の椅子つきの小さな丸テーブルのところへ僕を案内した。

「それがいい」と、僕もすぐに同意した。まさに僕が望んでいたようなものだった。

ベッドとソファーについては、自分がすでに目をつけていたものをダッグに伝えた。ダッグはそれらの品番をメモすると、「ちょっと待っててください。プライスを出してきますから」と言って、奥に引っ込んだ。

数日後、家具を運んでくれることになっていた日のことだった。ダッグから僕の携帯に電話があった。

「同僚が体調不調で休んでしまって、きょうはベッドだけでいいですか」と、ダッグは言った。

夕方になって、ようやくベッドを積んだトラックが宿舎にやってきた。ダッグ一人だけだった。

かれはパイプ製ベッドの入った大きなダンボール箱と、丸く圧縮してあるマットレスを二階に運ぶと、寝室のなかでパイプ製のベッドを組み立て始めた。

ダッグは作業を見ていた僕にふと「日本の大学で何をやってるの?」と訊いた。

僕が「英語を教えているんだ」と答えると、ダッグはニヤッと笑った。

僕はその笑いが何を意味しているのかわからなかった。

ダッグは「オレも英語の教師になりたかったんだ」と告白した。「だけど、無理だった」

僕には、勘違いかもしれないが、一瞬ダッグの顔が曇ったように映った。

僕がひと呼吸おいてその理由わけを訊くと、ダッグは「当時、それは白人の仕事だったからね」と答えた。

僕はもっとその辺の事情を聞きたかったが、黙っていた。

すると、ダッグは作業をしながら「オレ、一度だけ日本に行ったことがあるよ。グンマだけど」と言った。

そのとき、僕は初めてダッグが日系三世であることを知ったのだった。

ダッグの話によれば、かれの祖父が高崎市出身で、早稲田大学で空手をやっていて、大学を出たあとハワイにやってきたらしかった。

作業は二十分ほどで終わってしまった。

僕はダッグの話をもっと聞きたかった。

「店に戻るついでに、もしよかったら大学まで乗せていって」と、僕は頼んだ。

特に大学に用事はなかったのだが……。

ダッグは「もちろんだよ」と言って、僕をトラックの助手席に乗せてくれた。

大学には十分ぐらいで着いてしまった。

僕はトラックを降りる直前に、まるで餌を食べそこねた野良犬みたいに、「いつか都合のよいときでいいから、もっと話を聞かせてくれない?」と、ダッグに頼んだ。

サモア女性のティ

翌日、ダッグは同僚とふたりで残りの家具を運んできた。同僚というのは、背はそれほど大きくないが、肩幅が大きい女性だった。

サモア人でティと名乗った。

サモア人といえば、日本ではラグビー選手を連想させるが、ティもラグビーで言えば、最前列のフォワードの選手みたいながっしりした体つきだった。

彼女は狭い階段をダッグと一緒に重たいソファーを軽々と運んだ。

ダッグは「きのう、体調がわるいって言ってたけど、いまはこの通り」と言って、僕にウインクしてみせた。

ティは、彼女の怪力に舌を巻いている僕に向かって、「わたしとレスリングしてみる?」と言って、ケラケラと笑った。

「ティ、きみは日本の神風特攻隊を知らないな」と、僕は強がりを言った。「飛行機一機で、でかい戦艦に突っ込んでいって、沈めてしまうんだぞ――」

「いつでもOKよ。準備ができたら、かかってきて!」と言って、ティはふたたび快活(かいかつ)に笑った。

ポリネシア人の航海

あと調べてみると、いまオアフ島にはサモア人のコミュニティがあるらしかった。

サモア系の人は、ハワイの人口百四十五万人(二〇二一年)うちの約一パーセントぐらいだという。ちなみに、日系人は十二パーセントだ。

サモア諸島はハワイから南西に約三千五百キロ離れている。

さらに南に行くとトンガがある。ここら一帯をポリネシアという。ハワイの先住民はサモア人と同系のポリネシア人だ。

いまサモアはふたつあり、ニュージーランドから独立したサモアとアメリカ領の東サモアである。

東サモアからハワイ州に移住するのは容易い。サモア人の移住組はティのように、アメリカ社会の底辺で肉体労働に従事しているようだ。

そう言えば、ハワイ初日の朝、顔のあさ黒い太った作業人たちが宿舎の芝生の上に落ちた枯葉を噴射器で飛ばしていた。かれらもサモア人だったにちがいない。

さらに歴史をさかのぼってみると―― 

すでに六世紀半ばに、サモアを含む南方のポリネシアの島々からハワイにやってくる人がいた。まだ羅針盤による航海術もなかった時代である。

ハワイの神話や伝説をまとめたデイヴィッド・カラカウア王はこう書いている。

「当時のひんぱんな遠洋航海に鍛えられたポリネシア人は大胆で巧みな航海士であった……。星読みの水先案内人は主要な星に名前をつけて星々に親しみ、黄道帯の幅や赤道の位置もわかっていた。そうした予備知識を活かして風や海流、海風の流れや渡り鳥の方角を的確に読んだので、どれほど遠い目的地でもおおむねたどりつけた」

さらに太古の昔には、サモアからやってきた君主がハワイの王さまになったこともあった。

十一世紀ごろに、サモア出身(一説にタヒチ出身)のパアオという名の、占いや祭司をつかさどる大神官がいた。

ハワイにきて、当地の政情不安を知り、サモアのさる族長を招いた。族長は大勢のサモア人をハワイに連れてきて、新しい王朝を築いたのだった。

その王朝は長く続かなかったが、パアオの子孫は、なんと七百年にわたって大神官の地位を世襲で継いで、ハワイの神殿に君臨したのだった。

一九世紀初頭にカメハメハ大王がハワイ諸島を統一し、ハワイ王国の初代国王になったとき、神々に祈りを捧げたのも、そのパアオの子孫の大神官だった。

初代パアオの伝説

初代パアオの伝説が面白いので紹介しよう。

ハワイにやってくる前のパアオは、サモア島の兄の家の近くに住んでいた。兄弟ともに神官で、魔術や占いを得意としていた。

兄の名前はロノペレといい、自分の庭に高級な果物がなっていた。

それを夜中に盗む者がいて、兄はおまえの息子が犯人じゃないかと弟に難癖をつけた。

弟は憤怒(ふんぬ)に駆られ、兄の前で息子を殺して腹を裂き、息子の潔白を証明してみせた。

兄を憎んだパアオは、どこか別の島に移住しようと考え、カヌーを作ることにした。

そこへ兄の息子がやってきたので、仕返しにその少年を殺すように部下に命じた。

カヌーの近くで少年の遺体が見つかり、パアオに嫌疑がかかった。

兄は島から出ていけ、と弟に命じた。

パアオもそれ以上の厄介ごとを避けるために、四十名近くの者を引き連れて島を出発した。

カヌーの船団が岸を離れると、崖の上から何人かの預言者が同行を願い出た。

パアオは「あんたたちが本物ならば、海に飛び込め。引き上げてやるから」と言った。

預言者たちは次々に海に飛び込み、岩に激突して溺れ死んでしまった。

たった一人だけ、本物の預言者が助かり、岸に泳ぎついたが、カヌーははるか沖にでてしまっていた。

預言者は大声で「一艘、迎えにまわしてほしい」と、叫んだ。

パアオは「カヌーを戻すのは縁起がわるい。でも、あんたを乗せる余地はあるから、一緒に来たいのなら、こちらまで飛んでこいよ」と、誘った。

預言者は空を飛び、無事にカヌーにたどりついたのだった。

一方、兄のロノペレは岸から激しい嵐を送って、弟のカヌー船団を難破させようとした。

だが、力持ちの魚アク(カツオ)がカヌーを支え、万能の魚オペル(マルアジ)がカヌーのまわりを泳ぎ、荒波を受けとめた。

そこで、兄はキハカイワイナパリという鳥をつかわし、嘔吐させてカヌーを沈めようとした。

パアオはそれに対しても、雨よけマットをカヌーの上に張らせて難を逃れた。

長い航海の末に、パアオの一行はハワイ島の沿岸にたどりついた。

パアオとその子孫はそれ以後ずっと、アクとオペルという二匹の魚を神聖な魚としたという。

DJルーディ

レンタル家具の支払いは、月末までに翌月の分を払うことになっていた。小切手を郵送で送ってもいいし、直接店で払ってもよかった。

受付には、たいていルーディという名の若い男性がいた。

かれもサモア人だった。ティほど図体は大きくなかったが、僕よりも数段がっしりしていた。ガラスのパネルの向こうで、喘息なのか鼻炎なのか、しきりに声にならぬ声をあげ苦しそうにしていた。

ルーディはいつも僕から小切手を受けとると、目の前のコンピュータに数字を打ち込んで、領収書をプリントアウトして僕に渡すのだった。

僕は精算を済ますと、展示品のソファにすわって、ルーディととりとめのないおしゃべりすることにしていた。

あるとき、ルーディが言った。「コロナの前は、週末にDJをしてたんだ。ワイキキのクラブでさ」

僕は閑散としたワイキキの大通りを思い出していた。 

「徐々にだけど、本土からの客が戻ってきてるから、もう少ししたらクラブも再開するかもしれない。ところで、ギャンスタ・ラップの<ブー・ヤーBoo Yaa>って、知ってる?」

ルーディはそう言って、携帯でyoutubeのアプリを開いて僕に見せた。

そこには、太った肉体に特殊なアルファベッドの刺青を彫ったラッパーたちの、ミュージックビデオが映っていた。

黒人やチカーノのラッパーに引けをとらないギャングスタ・ラップ、底辺からの叫び声だった。

ルーディは苦しそうに息を吸った。

それから、ズボンのポケットから財布を取り出した。財布の中に何かを探していた。一枚の写真だった。ルーディはそれを僕に見せようとした。

「学生時代に日本に行ったことがあって」と、告げた。「そのとき、六本木のクラブでこの子に偶然出会ったんだ」

僕はカウンターのところまで行き、その写真を見せてもらった。

「サモアの女の子なんだ。人には見せない写真だけど、あんたならいいよ」と、ルーディは言った。

 すらりとした体型で目鼻立ちがはっきりした、恐ろしいくらいの美人だった。

しかしながら、僕が圧倒されたのは、女性の顔ではなかった。

サモアの刺青

「すごいだろ」と、ルーディがまるで自分のペットに仕込んだ芸を自慢するかのように、誇らしげに言った。

「こんなすごいもの、見たことない」と、僕も素直に同意した。

それは、横向きに立って斜め前方を見つめている女性の裸体を、やや後方からプロの写真家が撮った写真だった。

女性の背中から腋の下を通り、前方のお腹にかけて何本かのシダ類の葉のような模様が彫られ、ちょうど腰骨のあたりに、いくつもの菱形からなる大きな棗椰子なつめやしを彷彿とさせる模様が浮かんでいた。

「サモア人にとって、刺青はファッションじゃないんだ」と、ルーディが言った。「成人式を迎えた男女が家族と共におこなう一種の通過儀礼イニシエーションなんだ。痛みにこらえられる人になりました。大人の社会に入る準備ができましたと告げる印なんだよ」

ルーディによれば、もともとサモア人をはじめポリネシアの人々は活字をもたなかったという。

その代わり、親から子、孫へと受け継がれてきたのが、体に刻み込んだ絵柄だった。

女性の場合は、自分を魅力的にみせる装飾の意味が大きかったが、男性の場合は、一つひとつの絵柄に古代からの記号メッセージが埋め込まれていたらしい。

サモアの船と海流、航海術などの情報だけでなく、魚や鯨、ハイビスカスのような花や植物、食べ物や衣類などの知識が表現されていた。

たとえば、サメの歯はいくつもの三角形で表し、困難に打ち勝つパワーを意味する。

また太い線でカメの甲羅を表し、長寿や永遠の魂を意味するといったように。

要するに、刺青をした人はサモアの文化と歴史を、身をもって体現しているのだった。

一九世紀になってサモアにやってきた西洋人は、自分たちのキリスト教徒の価値観でそのような土着の文化を野蛮なものと見なしてやめさせようとした。

だが、それは成功しなかった。

「これは、サモア人の誇りだし、オレたちを抑圧する力に抗あらがって生き抜くための手段なんだ」と、ルーディは言った。

まるで釣り人が誇らしげに魚拓を見せるかのように、恋人の刺青を指さした。

日本ではヤクザの専売特許みたいになっている刺青だけど、僕は南米最先端のパタゴニアの先住民たちの全身に塗ったボディペインティングや、北米先住民のタトゥを思い出し、それらに相通じるサモア人の刺青の文化的、哲学的な意味に思いを寄せた。


月末にレンタル料を払いに店に出向いたときに、何度かティが店のほうで待機していることがあった。

僕が「たくましい美人さん」と声をかけると、彼女はニコッと笑った。

そして、「どうあたしを恋人にする気はないの?」 と、畳みかけてくるのだった。

「僕みたいな非力な男じゃ……」と口ごもると、「男なら挑戦してみなさいよ」と言って、また笑った。

 ハワイ滞在の日があとわずかになったある日、僕が支払いに出向くと、店の中は家具がなくなっており、もぬけの殻だった。

驚いてルーディに理由わけを聞くと、明日から別の地区に移るのだという。

しばらくすると、ティともう一人の新人のサモア人の女性が近くのスーパーでランチを買ってきて、テーブルに広げて食べ始めた。

僕が近づいていって、「何を食べているの?」と、のぞいてみると、白い発泡スチロールの容器にご飯と揚げた肉と卵だけが入っていた。

カロリーの高い肉体労働者の弁当だった。

ティは恥ずかしそうに「野菜が入ってないね」と言って弁当を隠そうとした。

僕は「たくましい美人」がそんな風に恥じらうのを初めて見た。

三月下旬に、いよいよ帰国する時期になり、家具の引き取り時間を再確認するために、新しい店舗に電話をした。

すると、電話に出た女性は、ダッグが別の店舗に配置されたと告げた。サモアの「たくましい美人」と新人の女性は解雇されていた。

最後に家具をとりにきてもらうときに、別れの会話ができるかな、と期待していたが、恥ずかしいそうに弁当を食べているあの姿を見たのが最後になってしまった。

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