![ハバナ](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/10021788/rectangle_large_type_2_da3dfc08f96f367e52e0862c00d8fb6a.jpeg?width=1200)
キューバで出会った秘儀の占い(3)
ぼくは最初の年のキューバ滞在を終えて、少し焦りを感じていました。
自分の部屋には、キューバの音楽や宗教や文学の本が、まるで子供部屋のオモチャのように、雑然と散らかっていました。
ぼくの貧弱なスペイン語で、同じような「調査」を繰り返していても、ものごとの表層を引っ掻くだけで終わってしまう。
その一方で、ある確信も得ていた。キューバに根づくアフロ信仰に食い込んでいけば、この国の文化の深層に触れることができるかもしれない。
この国にやってくる前に、「グアダルーペ」という名の混血の聖母をめぐって、メキシコをあちこち放浪しました。メキシコでは、16世紀に新大陸にやってきたスペイン人とインディオとのあいだに、信仰をめぐって激しい対立が生じました。
カトリック教会がインディオたちの肌の色に近い褐色の聖母グアダルーペを「発明」することにより、インディオたちはカトリック教会に歩み寄ることになりました。
カトリック教会は、先住民を改宗させるために土着の母神トナンティンへの信仰にカトリックの聖母信仰をドッキングさせたのです。
その際に、使った論法が「翻訳」というワザでした。
あなたたち(先住民)の母なるトナンティンさまは、私たち(カトリック教徒)の聖母グアダルーペさまと、中身は全く同じなのです。あなたたちのナワトル語と私たちのカスティーリャ(スペイン)語で、呼び名が違っているだけなのです。
そうカトリック教会は先住民を説得したのです。
抵抗していたインディオたちも妥協して、心の中で「トナンティン」と唱えることで、グアダルーペの聖母を受け入れることになりました。
ぼくは、抑圧された被征服者たちのサバイバルに興味があります。人間は政治的、軍事的に支配されても、心の中までは支配されません。
支配されたインディオたちにとって、生きていくための心の拠りどころがどこにあったのか。果たしてグアダルーペがその役割を果たしたのだろうか。
それが知りたくて、ぼくはメキシコ各地でグアダルーペの聖母を追いかけました。
そして、2冊の本を書きました。
『トウガラシのちいさな旅』(白水社)
『ギターを抱いた渡り鳥』(思潮社)です。
さて、キューバでは、キリスト教徒のスペイン人と黒人奴隷とのあいだに似たような信仰対立がありました。征服者(スペイン人)は奴隷たちのアフロ信仰を禁じましたが、奴隷たちは信仰を捨てることはありませんでした。
そこでカトリック教会はメキシコと同じ方法を取りました。奴隷たちが信じている様々な精霊たちに、カトリック教会の聖者や聖女、聖母を重ね合わせることにしたのです。
例えば、アフリカではオチュンと呼ばれる恋愛をつかさどる精霊に「エル・コブレの慈悲の聖母」をあてがったり、太鼓の精霊であるチャンゴーには聖女バルバラをあてがったりして・・・・・・。
奴隷たちは、家の目立つところにカトリック教会の聖女や聖者の像を飾りながら、裏の部屋に自分たちの精霊たちの聖具を飾りました。アフロ信仰の神々は、表に出ない秘密の神々、いわば「納戸の神々」なのです。
ぼくは、キューバのアフロ信仰のそうした二重構造を理屈ではなく、肌で感じたかったのです。そのためにもアフロ信仰の司祭と知りあう必要がありました。
2年目のハバナ滞在のときに、とても運のよいことに、自分の泊まったハバナの宿に、ババラウォと呼ばれる最高司祭が住んでいたのです。
ぼくは、三日ほど司祭がやっていることを密かに観察しながら、決心して言ったのです。
一週間後にサンティアゴ・デ・クーバから戻ってくるので、そのときにぼくのために入門の儀式「マノ・デ・オルーラ」をしてほしい、と。