豊かに個性的に表現するために大切なふたつのこと
いまとなってはどこに行ったかわからないが、若い頃に「ゴーヤチャンプルー」というエッセイを書いた。
あるとき、ゴーヤチャンプルーが食べたくなった。想像上のレシピでつくったところ、沖縄のそれの味にはならず、故郷の田舎料理のような味になった。作曲でもそうで、ジャズをやろうとしたらジャズではなく慣れ親しんできた音楽みたいな響きになった、それが個性だ、みたいな文だったと記憶している。
たしかに、演歌歌手がビートルズを歌ってもなんとなく演歌に聞こえるし、武満徹さんがコテコテのバタくさい曲を書いたつもりだった自曲をヨーロッパで聴いたらさっぱりした精進料理のように聞こえたと言っていたし。それが個性、またはシグネチャーというものだ。
いやちょっと待て。ゴーヤチャンプルーが沖縄の味にならなかったのは、ジャズがジャズにならなかったのは、個性でもなんでもないのではないか。それしかつくれなかったんじゃないのか。
「それしかつくれない」というのと「いろんな技術、引き出しを持っているが、何をやっても不思議とその人らしさがにじみ出る」というのはまったくちがう。ゴーヤチャンプルーをつくれない技術のなさ、ジャズをジャズにできない技術のなさを個性と呼んではいけない。
ところで以前、「言語化が大切なたったひとつの理由」という記事(ちなみに私の note 記事のなかで最もスキされている記事)のなかで、言語化する理由は再現性だと書いた。
料理のレシピはまさにそれ。何度繰り返しつくっても同じ味が再現できるように明文化したのがレシピだ。近年では動画レシピも増えているが、動きを見てもわかりづらい要素(分量、コツなど)は言語化したほうが再現性がある。
似たようなものに、仕事のマニュアルがある。
マニュアルは、誰がその仕事に就いても同じ言動ができるよう言語化したもの。接客マニュアルなどはその際たるものだ。近所のスーパーのマニュアルを見たことはないが、たぶん客が来たら足を揃えて両手をへその前で組んでいらっしゃいませと言う、会計のときはポイントカードはお持ちですかと言うなどと書かれているじゃないか。誰の列に並んでも同じだから。
あるとき、接客についてのアンケート記入を頼まれた。「あいさつは」「言葉遣いは」「会計は」「お礼は」などの項目があった。どれも満点だった。ところが、総合的な満足度は低かった。
それはなぜか。すべての項目で、「そう言うことになっているから言った」「そうすることに決められているからした」という動機しか感じられなかったからだ。平たくいえば、言動は正しいが、心がこもっていなかったのだ。
若い頃に働いたカフェにはマニュアルがなかった。やらなくてはいけないことは無数にあったのにもかかわらず。マニュアルの代わりにあったのは「方針」だった。
店長は、接客するときには「親戚のおばあちゃんに接するときのように接しなさい」と言った。それが接客の方針。
仮に親戚のおばあちゃんだとしたら、入ってきたら「ああ、おばあちゃん、おはようございます。よく来たね、暑かったでしょ」とか言うだろうし、道に迷ったと電話が来たら、迎えに行けるタイミングだったら迎えに行くだろう。まちがっても鼻にかかった声で語尾をのばしながら「いらっしゃいませ、こんにちはー」とは言わないだろうし、「駅からの道のりはウェブサイトに載ってます」と突き放したりはしない。
マニュアルがすべての言動を示してそれをそのままに再現することを求めるのに対し、方針は動機を示してその解釈によって言動に無限のバリエーションをつくりだす。
ここまで読まれたあなたは、マニュアルはダメ、方針がいいと筆者は言おうとしているのではないかと思うかもしれない。しかし、そうではない。
先日、午後7時過ぎに息子から電話が入った。近所の友人3人を連れてきていいかと言った。つまり、うちで食事をするということだ。高校に入ってから、中学時代にかなりの頻度でやっていた子ども食堂もどきをほとんどやってなかったから不意打ち。だがみんな腹を空かせている。さて何をつくろうか。「方針」は従来通り【美味しい、栄養がある、量がある、アレルギーの心配がない】だ。
冷蔵庫にあった食材をその方針と照らし合わせ、ゴーヤチャンプルーをつくることにした。
クッキングサイトでレシピを複数見た。一口にゴーヤチャンプルーといってもいろんなつくりかたがあるものだ。なかで最も票を集めている、最も正当っぽいレシピ通りにつくることにした。つまりマニュアル通りだ。
マニュアル通りはいわば技術。引き出し、ボキャブラリー。マニュアル通りにできるもの、つまり自分にとって再現性が高いものを多くもっていればいるほど、方針を多様に体現できる。
方針はいわばコンセプト。解釈によって無限の可能性がある。多くの技術、引き出しを持っていれば、それを豊かに体現できる。
たとえば、愛の歌というコンセプトでギター曲をつくるとする。一つのキーのかき鳴らししかできないよりは、ピッキング、アルペジオ、転調などができるほうが曲が豊かになるだろう。田舎料理の味付けしかできないより、沖縄、イタリアン、中華、それぞれの基本を知っているほうが豊かなように。
ゴーヤチャンプルーをつくるときの、切る、塩もみする、味付けする、炒めるなども技術。もしたまごをフライパンの上で割る技術しか持ち合わせていなかったら、体現の幅が狭くなる。
接客においても、いくらかつてのバイト先のような方針が与えられたとしても、たとえば言葉のしゃべれない外国の店だったら、できることは限られる。
マニュアル通りの技術にはオリジナリティがないじゃないか、アートがそれでいいのかと思われるかもしれない。だが、それらをどう組み合わせるかにつくり手の創造性は発揮される。
あのジョブズも、すでに存在するものの新しい組み合わせがイノベーションであり創造性だと言っていた。ジョブズは常に世に提供したいもののコンセプト、表現したい方針を持っていた。そして、それを豊かに体現できる技術、組み合わせるアイディアを探していた。どちらも等しく大切だった。
十代の男子たちに提供する前にゴーヤチャンプルーを味見をした。故郷の味はしなかった。わりと正統の味になっていた。
これらに、レシピ通りつくって冷蔵庫に置いていた肉じゃが、分とく山の野崎さんの炊き方で炊いた白米、ナスの味噌汁を組み合わせて、オリジナリティはないが、美味しい(たぶん)、栄養がある、量がある、アレルギーの心配がない「ロベルトさんの料理」が表現できたんじゃないだろうか。