ナイル川でバタフライ(3)〜思いがけず、バンコク
前回まで
(1)〜以前の私にとって、旅とは純粋に体験だった
(2)〜出発
バンコク→成田の帰りの便はすでに決まっている。エジプト行きが数日後になってしまったからには、それまではバンコクをとことん楽しもう、そう決心した(ちなみにその後我々が日本に帰るまで、例の旅行代理店は店を閉めていた)。
前回紹介したバンコクで知り合ったウィナイは、若者文化の中心地でもあったチャトゥチャック・ウィークエンドマーケットに連れて行ってくれた。彼はそこに革製のブーツの店を持っていた。衣類、カルチャー、飲食など、さまざまな店がひしめく単一のものとしては世界最大級の市場だ。そこを見ているだけで、タイ文化、タイ人が大切にしているものがよくわかったし、これから猛烈に伸びていく国の勢いのようなものも感じた。
タイの大学生活に興味があって、同世代の友だちをつくりたいと、ある日、単独アポ無しで「日本から来ました。英語を話せる人はいますか」と名門タマサート大学の学事部に行った。英語をほとんど解しない職員があたふたしながら、イングリッシュクラブの部室まで案内してくれた。
そこには談笑する男女が3、4人いた。突然会う初めての日本人を、驚きながらも大歓迎してくれた。当時はまだタマサート大学の学生といえどあまり英語が話せないようだったが、日本のことを知りたいと積極的に質問してくれた。けっきょくその日は学生新聞の取材を受けるまでに至った。
また、宿の空きがなくめぼしい部屋が取れなかったとき、1晩だけウィナイが家に泊めてくれた。ホームステイ。生まれて初めてのタイで、リアルな庶民の民家に宿泊した。タクシーで夜中に着いて、電球のほとんどない、ゲストハウス以上に暗い家のなかに入ると、年老いた彼のお母さんが両手を合わせて静かに迎えてくれた。
私はホームステイが好きだ。なぜなら、ホテル滞在とちがい、人々の現実の生活のなかに入ってそれを体験できるから。高校に通ったアメリカでも、このタイ・エジプトの旅の2年後に行った韓国でも、それぞれホームステイした。人々がどんな家に住んでどんな食事をし、どんなタイミングでどんな日常のことをし、どんなトーンでどんな会話をするのか。それらは観光ではわからない。どの滞在も貴重な経験だった。
さて、エジプトへ発つ前の晩に、ウィナイが社会勉強のために行くべきだと、しつこく言ってきたところがあった。それはパッポンというところだという。行くまではどんなところかいまいち想像できず、そして、行ってみて驚いた。しかも、社会勉強のために、店に入ってそこで何が行われているか見ておくべきだ、でも外国人1人いくよりタイ人がいっしょに行ったほうが安全だから僕が案内すると言って、けっきょく彼も私の金でダンスを見ることになった。
途中1人のダンサーと目が合った。彼女はその後ずっとこちらを見てきた。ショーの合間に私のところに来て、膝上20cmくらいのスカートのまま私の膝におもむろに座ってきた。耳元でどこから来たのとかいくつか質問してきた。カタコトの会話もそれなりに盛り上がった後、この後お店の外で会わないかとメモを渡された。音楽と照明と香水による過度な演出に、21歳の健康な男子は思わず流されそうになった。が、そろそろ帰ると手を振って店を出てゲーム終了。ウィナイはといえば、普通のタイ人にはなかなか払えない金額なのだろう、初めてのパッポン体験にうれしそうな顔をしていた。
バンコクでの移動には、徒歩以外には、主にチャオプラヤ川の船とバスを使った。文字も言葉もわからなかったが、ここで降りたいと運転手や切符切りの職員に言うと親切にジェスチャーで教えてくれた。
チャオプラヤのエクスプレスボートには、日に何度も乗った。クルーは10〜20代と思われる男女が多かった。あるとき、行きも帰りも同じクルーになったことがあった。向こうも私のことを覚えていてくれて、身振り手振りでコミュニケートを取るうちに、互いにちょっと好意を持った女性がいた。翌日また乗りに行くと、彼女は次の便だとか、スタッフたちが冷やかすように笑いながら教えてくれた。
エジプトへ再出発するころには、出発前には何の期待もしていなかったタイのことが、すっかり好きになっていた。
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