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大事な感情と写真は、いつも遅れてやってくる
私の心はいつだってそうだ。出来事に直面しているその瞬間にはこれといった感情を体験しないのに、後になってから感情が押し寄せてくる。今回もそうだった。
きっとこれまで生きてきたなかで潜在意識がつくりあげた自己防衛の仕組みなのだろう。なにかの体験のたびに感情的になっていては時が前に進まない。とりあえず進めておいて、感情は後のしかるべきタイミングで、そろそろいいんじゃない?と差し出してくれる仕組みになっているのだ。きっと。
昨年末、引っ越しをした。引き渡しの当日、家具のない部屋を眺めながら心の内側を覗いてみたら、意外なほどさっぱりしていた。まるで目の前の光景を映しているかのように。
居心地のいい場所だったから、最後の瞬間にはさぞ感情的になるだろうと覚悟していたから、ちょっと自分自身に拍子抜けした。
息子の通う中学校の近くで部屋を探し、いくつか見てまわったが決め手がないなかで、親切な不動産屋がこんな空きがでましたよと持ってきた部屋だった。一目で好きになったが、息子は学校が近すぎると心配した。だがけっきょくそれがのちに大切な要素になった。
少しずつ学校の友だちが放課後にうちに来るようになった。受験が近くなると毎日のように誰かが入れ替わり立ち替わり我が家で勉強するようになった。不登校で数学が苦手だった子が少しずつ分かるようになったり、恋の話をしたり、十代の少年たちの成長を傍らで見るのは感動的ですらあった。入試が終わるとこんどは毎日我が家でゲームをしたり映画を観たり料理をしたりしていた。少ない日でも2、3人、多い日は10人くらい来た。
そのうちの希望者に私は子ども食堂とか言いながら夕食を振る舞った。ロベルトさんの料理は美味しいとおだてられ、調子に乗って大皿料理を出した。我が家には毎日笑顔があった。高校に通ういまも、中学の友だちは最高だったと息子は言う。
そんな息子に引っ越しの話をしたとき、彼は何も言わず部屋に入ってドアを閉めた。耳を澄ますと、Vaundyの「僕は今日も」をスピーカーから流し、泣きながらいっしょに歌っていた。
もしも僕らが生まれてきて
もしも僕らが大人になっても
もしも僕らがいなくなっていても
そこに僕の歌があれば
それでいいさ
マンション最後の晩、妻と息子と川の字になって映画を観ながら寝た。私は途中寝落ちして映画は最初と最後しか観てないけど。
深夜に目が覚めて、暗がりのなかで息子を見ると、拝みたくなるほど和やかな顔をして寝ていた。
翌朝学校に行く前に彼はスマートフォンで写真をたくさん撮った。何枚も何枚も同じような写真を撮った。マンションの出入口でも撮った。そして、意を決したように一度小さく深く呼吸をして、駅に向かった。私は彼のこの地での最後の通学のようすをライカM6で写真に撮りながらいっしょに歩いた。これまでも朝駅までいっしょに歩いてその後仕事に行くのを日課にしていた。駅につながる地下道の入り口でいつもより少し大きな声で「いってらっしゃい」と言って別れた。
この時点でも、どう荷物をまとめようか掃除をしようかという段取りに心が奪われていて、とくべつ強い感情はなかった。
数日経って正月になり、家族の留守中に、はじめて新居で1人になった。
日没頃に出先から戻り、部屋の明かりをつける前にワインを開け、まだ積み上がっている段ボールに囲まれながら窓の外の新しい景色に目をやった。正月だからビル群には人が少なそうだ。ほのかに陽が残る、そのワインと同じくらい澄んで冷たそうな冬の空を見ていたら、何の予兆もなく唐突に、感情の波が襲ってきた。
楽しかったときの、引っ越しの話をされたときの、歌っていたときの、写真を撮っていたときの息子を見て心の奥底で感じていたものが堰を切って溢れ出た。
親としてもっとちがう選択、ちがう行動ができたんじゃないかと、あの日からずっと、無意識に自分を責めていたことにきづいた。
これはきっとワインのせいだ。正月の都心のマンションに人はほとんどいない。どんなに声を出したって警察には通報されないだろう。
僕はできる子と暗示をして
心が折れる音が聞こえた
思ってるだけじゃ
そう辛くてでも
そうする他には術はなくて
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引っ越しからひと月経ってようやく、最後の登校の姿を収めたフィルムを現像した。前からうすうす思っていた。フィルムカメラの宿命である撮ってから像を見るまでの時差にもきっと意味があるのだ。感情を写真がもういちど上書きしてくれるから。
古きよきコダックらしい色合いは、フィルム全盛期だったころのアメリカのように、世界を少し楽観的に見せてくれる。デジタルカメラだとシリアスな画をつくりがちな自分にはちょうどいい。
ライカとカラーネガフィルムで撮った写真はいつも言う。世界は君が考えているよりずっとやさしくて希望があるところだよ、君が望みさえすれば、と。
撮っていたときにはきづかなかったが、写真のなかの息子は、目を腫らしていた。