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Oblivion: 自分自身の声を忘れていた
「この間ライヴに来てくれたプロデューサーに、あなたをやめさせたほうがいいんじゃない?って言われた」
当時所属していた音楽事務所の代表が苦笑いをしながらそう言った。たしか、渋谷のカフェかどこかで、次のライヴの告知ハガキの宛名書きをしていたときだったと思う。彼はその意見について否定も肯定もしなかった。他人の言葉としてしゃべっていたが、彼の本音に聞こえた。そのときの私の感情は、意外にも腹が立ったとか傷ついたとかではなく、やっぱりそうかという感じだった。
大学の後半から作曲の修行を始め、卒業後は就職せず、アルバイトをしながらちょとずつ演奏活動や作編曲の仕事を増やしていった。当初思い描いていたような道からは程遠かったが、事務所に属したのを機に次のステージに登れるんじゃないかと考えていたタイミングだった。
それまで音楽を専門的に学んだことがなかった自分が周囲から見たら唐突に方向転換できたのは、どうしてもやりたかったから。やらないと後々深く後悔すると思ったから。
なまじ学生時代に公私で小さな成功体験があったので、音楽でもやっていける根拠のない自信があった。なんの疑いもなく無謀なチャレンジができた。いや、そもそも無謀だとさえ思っていなかった。情熱を感じる仕事に無我夢中で集中すれば道は開けると楽観的に信じていた。
弟子入りして学んだ作曲技術の習得は、仮に十代のころだったら順調と思っていたかもしれない。しかし、サラリーマンにだけはなりたくないと当初は誇りくらいに思っていた定職がないという身分に、日に日に焦燥感と劣等感が募った。1日でも早く作曲家として、音楽家として認められたい。
師匠は私がどうやっても身につけられない技術をいくつも持っていた。これがプロの音楽家なのかと思った。やればやるほど自信を失っていった。学べば学ぶほど自分の不足部分が炙り出され、訓練すればするほど理想に追いつけない自分に呆れた。当時付き合っていた彼女からは早くそんな水商売はやめて就職してと言われつづけた。徐々に自己否定と不安の量が、情熱を上回っていった。
ライヴをやっても、録音をしても、意識のどこかから「こんなんで大丈夫?」「やめたほうがいいんじゃないの?」という声が聞こえた。そのプロデューサーが来たライヴでもきっと自信なさげに弾いていたんだと思う。
作曲に集中すれば金がなくなり、アルバイトの時間を増やせば音楽ができなくなる状況がつづいた。現実の貯金も、自信の貯金も底をつきつつあったころ、月1で行われていた同じ事務所に所属するアコーディオン奏者のライヴに毎回招待枠で行っていた。
彼のレパートリーには、ピアソラの曲が含まれていた。「リベルタンゴ」で聴衆を圧倒したかと思うと、クライマックスでは必ず「オブリヴィオン」を情熱的に弾いた。
瞑想的なAパート、そしてドミナントにつづくBパートで、このニューヨーク育ちのアルゼンチン人作曲家が得意とするコード進行に乗せた息の長いパッセージが鳴る。私の全身は揺さぶられ、不安で押しつぶされそうな心がこれでもかこれでもかと引き裂かれる。
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時が流れ、創造の領域は音楽から写真や絵画にも広がった。自分の経験や知恵を分ちあい、教える立場にも立つようになった。
主宰する講座に時折、まったくの初心者が来る。技術はないが情熱の塊のような彼らの作品に触れると、どきっとする。こんな作品は人生で2度とつくれない。存分につくり、その過程を楽しんでほしい。そして、その熱量を生涯忘れずどこかに残していてほしい、いや醸造していってほしいと願う。
思い返せば私も、音楽を志したばかりの、音楽と未来に希望とワクワクしかなかったころ、まったく音楽としてのかたちをなしていないような下手くそな演奏を、めちゃくちゃな音楽を、よろこんで他人に聴かせていたではないか。
オブリヴィオン。忘却。
その後、修行で得た知識と演奏活動での経験と引き換えに、自分自身の声を、自分の歌を忘れていった。よろこびを音楽に込めることを忘れていった。
メジャー契約すれば、ドラマのサントラを担当すれば、ヒット曲を出せば、認められると思っていた。認められないのは、技術が足りないせい、音楽のトレンドと合っていないせい、売り込み方が下手なせいだと思っていた。世界に、レコード会社に、事務所の代表に、認められたかった。
振り返って思う。師匠ほどではなかったが十分な技術はあった。トレンドじゃない音楽が好きな人は世界じゅうにいた。熱が伝われば売り込み方は問題じゃなかった。あのときの自分はきっと、仮にメジャー契約しても、サントラを書いても、ヒットしても、いつまでも自信がない状態でいただろう。
なぜなら、認めてくれなかったのは世界でも、レコード会社でも、音楽事務所の代表でもなかったからだ。自分が自分自身を認めていなかったのだ。本当に認めてほしかったのは、ほかでもない自分自身にだったのだ。こんなにかんたんなことに氣づくのに永い年月を費やしてしまった。
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いま、忘れていた自分自身の声を懸命に聴き出し、自分だけの歌にすべく、日々制作している。しばらく前までざわざわと波打っていた意識(自意識)の波が凪いでいるのがわかる。いまはわかる。自分自身の声に真摯に耳を傾けることが、自分を認めるということなのだ。