過去の自分を覗いてきた
過去の自分を覗きに行く夢を見た。
若い頃の夢ならよく見る。だが今回はちがった。自分はいまの年齢(たぶん)のままで、タイムスリップして過去の自分を見にいくというもの。すごく不思議で新鮮な感覚だった。
舞台は実家。時刻は夕刻。外は小雨。南側の部屋から、いくぶん緊張しながら東の廊下を音を立てずに静かに通り、西側にある居間をちらりと見る。父が寝転んでいる脇で、よく着ていた部屋着を着てなにかの作業をしている十代後半か二十代の私がいる。現代の私は、きづかれないよう、すぐにその場を去る。
ほんの数秒のことだったが、鮮烈なセンセーションだった。
なぜ過去の自分を覗きにいくことになったかは覚えていない。夢のなかでは1970年と言っていたが、年齢との整合が取れないのでちがうだろう。
その後アラームで目が覚めた。起き上がるまでの間、ふと、過去の自分自身を振り返り、「こうしておけばよかった」というような、いま振り返るとちがう選択をしておけばよかったと思えるターニングポイントがもしあれば、その時点にタイムスリップして記憶を書き換えたらどうなるだろうと思い、振り返ってみることにした。たとえば今日の夢の舞台がターニングポイントだったなら、そこで別な選択をして(させて)みたらどうなるだろうといったような。
パラレルリアリティは無限に存在しているという。あのときあちらに舵を切っていたらいまちがう現実を生きているかも、というターニングポイントがいくつかあるかもしれない。そう思ったのだ。
まどろみのなかで振り返る。十代から最近まで、懸命に振り返る。ターニングポイントはいくつか思い出す。だが、こうしておけばよかったと思う転機がいっこうに思いつかない。
十代で海外で学ぶ選択をしていたらとか、一般企業に就職していたらとか、ふだんはいろいろ考えるが、いざ振り返って書き換えたい過去があるかというと、一切なかった。過去の選択に後悔はないのだろう。ただ、そのときどきで、自信がなくて、確信がなくて、自他からの厳しい目に怯えている自分自身がいた(そう、自分が自分自身に厳しかった)。
ベッドから起き、いつものように掃除をし、家族の朝食をつくり、短時間の瞑想をした。そのときふと、そんな過去の自分自身に応援のエネルギーを送ってみようと思った。先日習ったやり方で、それぞれのターニングポイントで前を向いて軽やかに選択できていない自分自身に向かっていまの自分から、それでいいんだよ、堂々とそれを選んでいいんだよと、まるくてあたたかいエネルギーを送った。するととつぜん涙が溢れてきた。そんなつもりはなかったので驚いた。朝からやばいやばいと、すぐに出かける準備をして、自転車に乗った。冬の晴れた東京の風は冷たく乾燥していたが、空は透きとおった水色で、東には早朝の暖色が残っていた。