小説という体験
小説家には憧れる。正確に言えば、小説家になることに憧れるというより、本屋に並ぶくらいのクオリティを持った小説を書くことに憧れる。
いまもある方から勧められた小説を読んでいる。小説を読んでいるときの、その「染み込んでくるような」体験は、他の媒体では体験できないものだとあらためて思う。
それは私にとって、言葉の力が引き起こすドラマの体験と、音は鳴っていないのに作者の文体による言葉が静かに内側で身体と共鳴する音響の体験。だから私の場合、文体が自分に「合わない」作家の作品は、読み進められない。
安達ロベルトあるあるで、やはり小説もこれまでいくつか書いている。いまでもすぐ出版できそうなものも1つある。
ただ、少なくともこれまでの私は、たとえばある1つの動作をこと細かに多くの言葉で描写することよりも、複雑な現象を1つのシンプルな原則に収斂させることのほうが得意な人間だった。だから、前者の働きが大切な小説書きは、あまり向いていなかった。
その証拠に、二十代で生まれて初めて書いた小説は、途中でその地道な作業に飽きてしまい、あるとき突然にクライマックスが来て終了するようなものだった。
しかし、その小説を書いた頃に比べて心身が落ち着いたのに加え、近年たくさんやっている執筆や翻訳の仕事を通して、地道に言葉で彫刻するような作業も苦ではなくなってきている。
言葉を使って小説というかたちにするかどうかは別として、上に挙げた私の好きな小説体験と似たような体験のできる作品を、これからつくりたいと思っている。