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No.01「担当と推しの違い」って、なに?

違う。と一言で言うのは正直に言って難しい。
誰もこの問いに明確な答えなど持っていないからだ。
だからこれは私の持論になる。


では推し≠担当なのか?

まず、推し≠担当という構図はあり得ない。
これについては、アイマスの伝統、『お姫様ティアラ論』を引用する。
お姫様ティアラについて解説する。765のゲームシリーズのシステムには「ファンからのプレゼント」というものがあり、初代から最新のスタマスに至るまで、ゲームを開始して担当を選んだ最初の日に、ファン第1号からのプレゼントとして「お姫様ティアラ」が贈られる。当然まだ世間に知られていないアイドルのファンなんてPしかいないのだから、Pはアイドル○○の最初のファンということになる。
明記はされていないが、各タイトルでアイドルのプロデュースをするとき、最初は必ずファン数が1人からスタートするのもそういうことである。
したがって、推し≠担当は成り立たない。

私の意見としては、担当⊃推し、すなわち「推し」は「担当」に包括される。ポイントは⊇ではないところだ。
これを述べる為には、「推し」と「担当」についてそれぞれ考える必要がある。

推しという概念について

まず「推し」とは、一言で言えばエゴである。
こうあって欲しい。こう育って欲しい。そういった願望と共にアイドルを拝み、この願いに応えてくれたりそれ以上のものを出された時には歓喜する。一挙手一投足まで愛おしく思い、全身でこれを表現する。
これが非常に体力を使うのだが、恐ろしいことに推し事がないと肝心のやる気が日常ですら出ない。宇佐見りん著の小説『推し、燃ゆ』ではこれを端的に「推しは背骨だ」と表現している。まさしくその通りだと思う。

我が国は八百万の神の国である。
太古の昔からなんでもかんでも神様だと祀ってきた、崇め奉ることについては世界有数のフットワークの軽さを持つ国だ。そしてフットワークが軽いからこそ、神様との距離が近いように感じる。
実際に他国の神様とお供え物を比べるに、仰々しい他国に比べて我々はやれ饅頭だのご飯だのといった一般家庭でご用意出来るものを供える。
これは神様との距離の近さ故だろう。我々は神様を日常に偏在するものだと捉えているからこそ、崇めることのフットワークが軽いのかもしれない。
この「崇め奉る」という、紀元の昔から先人たちがやってきた行為は、基本的に奉る側の一方通行な行為である。石や神木にリターンを求める方がおかしな話だからだ。石に願っていることなんて、さざれ石が巌となって苔がむすことくらいだろう。

要は推しに求めているのは結局のところ実在性なのだ。偏在するからこそ、気軽に推せるからこそ、そこに居てくれることを望む。そしてこれは一番のエゴだと思う。「そこにいるだけで生きていられるからずっとそこに居てくれ」というのは世間から見るにあまりにも激重な感情ではないだろうか。

担当という概念について

若干思想が入ってしまい変な文章になったことを反省しつつ、「担当」の話に移る。
「担当」とは何か?共犯関係である。
孫子曰く、「戦争とは闘う前に勝敗が決するもの」である。アイマスは基本的に永続的に闘い続ける運命にあるが、実際に闘うアイドルをどう導けるかが、我々の仕事、プロデュースである。
ここで大事なのは、導くというのは何もレッスンを積ませたり楽曲を与えたりということのみを指さない。むしろ一番大事なのは、『アイドル○○』をどのように形作るかという思想の部分である。推しの時に「実在性」という言葉を使ったが、この部分をアイドルと相談し、自らも悩みながら作り上げていく。この過程こそ、プロデュースと呼ぶのではないか。

ただ、ここに1つ問題が生じる。アイマスのプロデュースは二次創作をしない限り、とれる択が公式の供給に留まるということである。これで果たして「実在性を作り上げる」というプロデュースが成立するのか?

これに自分なりの答えをだすと、要は公式の供給は道筋である。最適解と言ってもいいかもしれない。ただし、最適解が自分の中の答えと合致するとは言えない。だからこそ、自分の答えを出して擦り合わせる作業、これがゲーム等をやる時のプロデュースだと思っている。
まず自分の中に「アイドルを○○の実在性」を作り上げる。そして次々にやってくる公式供給と擦り合わせる。この第一段階だけをプロデュースと呼ぶことも出来るが、アイマスはアイドルの「なりたい!」という憧れを叶える物語でもあるから、第一段階だけでは「アイマスにおける」プロデュースではないと個人的には思う。

そうやって、2人で作り上げた『アイドル○○』の勝利の喜びも敗北の悔しさも、2人だったから分かち合える。アイドルが苦しんでいるときに自分も苦しむ。ここの心のリンクすらもひっくるめて、私は共犯関係という言葉を使う。


じゃあ結局なんなんすかね

したがって、実在性を求めるという点で「推し」と「担当」は合致するが、「担当」はそこから更に実在性の創造をすることが求められる。
こんなに長々と書いておいてなんだが、結局は『アイドル○○』を想って頭を悩ますことが出来るかどうかというだけの違いである。悩まずに供給だけを享受するなら「推し」という言葉で済ませていいのではないか。
担当の為に悩んだ時間こそ、真摯に向き合った時間こそが何者にも変えがたい『○○P』という名称を創る。
私はそう信じて疑わない。


このnoteからアイマスシリーズに対する個人的な見解をまとめることにした。

トプ画も自作しちゃったので、もう後には引けなくなってしまった……

『アイマス論こねくり回し部』という名前も付けてみたが特に意味はない。
ナンバリングして今後に繋げて行こうと思う。8月の765のライブまでを期限として、書きたいものは時間の許す限りドンドン書いていきたい。


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