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魔法少女になれんかった!

 朝は体が重くて脚が痺れているみたいで起き上がれなくて、でも強迫観念だけはあるからなんとか起きて、夜は漠然とした不安と何もできなかった後悔とたくさんの絶望感で寝られない。でも肌が荒れるので寝たほうがいい。
 バイト先のテーブル、皿やゴミが広げられっぱなしでバッシングがしにくいのって、子供連れの客が多い印象がある。父とか母とか家族連れとかママ友会とか、そういうの関係なく、とにかく子供連れ。べつにそういうのは店員の仕事だし、それに対してなにか思うわけでもない。Twitterでよく見る子持ち様とかいいたいわけでもない。ただ、余裕がないんだろうなと思う。成人でさえ予測不能な行動をとるのだ。もっと幼い子供なんて、宇宙人と大差ないだろう。仕方のないことだ。
 私も大概余裕がないのだと思う。半年くらい音楽に注ぎ込みすぎて、あとは必修の興味のない授業をなんとか消化しすぎていて、ほんとうにやりたかったことってなんなのだろうなと。音楽はもちろんやりたかったけれども。友達にも恵まれている方ではあるし、それは幸せなことだと思う。ただ、やはり日常を消費している感覚が抜けない。
 本を読む時間が圧倒的に減った。積読とか考えられないと思っていた頃の自分が懐かしい。1年程前に購入したはずの本がまだ読まれずに積まれている。部屋の隅に。
 小説なんて読む必要はないと思う。むしろ読んでいる方が不健康かも。どうやらみんなは自分の人生を通じて生き方を習得していくらしい。小説が教えてくれるのではないらしいと最近知った。でもこんなことを言うと自惚れているみたいで気持ちが悪いので言わない。
 昔は生きていくために本を読んでいた。読み漁っていた。サルベージのように。サルベージという言葉も小説が教えてくれた。今ではなんとなくで毎日時間がなくて、そこそこ不幸でそこそこ幸せ。いいことなのかなとは思う。でも活字に生かされてきた人間のため、活字を読まないと生活が立ち行かない。そろそろ限界が近いのだろうなと。痺れている脚をどうにか動かしながら。
 半年を無駄にしたとはどうしても思えない。ある意味でこの年齢らしい生活と経験をしたし、自分が想定より成長していなくて、そして、なんか、光は見えた。
 テレビで見ていた景色は日常の風景と化した。憧れつつ素通りしていた店にも入るなどした。メッキ加工のされた髪の毛に耳元に埋まる宝石たち。それが自分の全てだった。音楽も活字も大切ではあるけれど結局自分のものではない。身ひとつで生きるというか、自分の体以外は自分のものではないのだと。
 日常のちいさな幸せたちを、どうにか大きな絶望にぶつけて、それで満足する日々。
 「幸せになりたいって嘆いていた時期の方が、案外本当に幸せを掴んだ時より満たされているのかも」
 「そんな本質的なこと言わないで」
 最近は金木犀と銀木犀が混ざって落ちていてとても良い。こんな季節にふらっと消え去りたい。

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