敬老と経験知

今年54歳になるおっさんが目の前に迫った老人への移行する前の心がけです。

白饅頭さんの上記noteを読んで色々目から鱗が落ちました。
今後、「敬老」という言葉は死語になると。その理論武装?が出来ました。
肌感覚と乖離がなくなりました。

敬老は希少性の問題

老人を敬うと言うのは、老人の絶対数が少ない且つ老人以外との比率が1:10?以下(老人の割合が低い)でないと成り立たない。
地域の活動で分かるのですが、70代が半分以上占めています。
その方々のお子さんが40代に差し掛かる頃でしょう。
昔なら40~50代が多く、いろんなことが体力のあるうちに実行されていた。
今は老人が多く、明らかに実行部隊の頭数が足りていないのに「年寄りだから」と逃げられたら、敬う気にもならないでしょう。

経験知の希少性の消滅

インターネットによる情報の流通量の劇的な増加で、経験知(経験によって得られる知識)が莫大な量アクセスできるようになった。
経験知を持っている(と錯覚されていた)老人の言葉(≒経験知)を老人を通さずに得られるようになったので必要性が消滅した。
経験知(と錯覚されていた)老人の言葉が、実は間違っていると言うことがインターネット上の集合知でバレてしまった。

昔は知っている人がごく少数の老人だけなので、間違ったことが間違ったことだと認識されることはなかった。老人の持っている知識が間違っていたのではなく、実行した若者側の実行の仕方が悪いと誤魔化すことが出来ていた。
経験知が検証可能な知識になってしまって、価値が消滅したので持っている人の価値も消滅した。


人口減少局面では下の世代になればなるほと人数が減っていくので、老人の希少性が戻ることはないでしょう。(私が生きている間は無理だ)
経験することも、経験知にアクセスすることも老人よりはるかに容易な若い世代の方が知識の多さで逆転してしまったので、老人の経験知が希少になる未来はない。

老人(未来の自分)にとってはネガティブなことかもしれないですが、これだけ明確になっていれば対策は容易なので、返って明るい老人生活が送れそうです。

いいなと思ったら応援しよう!