横須賀→葉山→武蔵小金井→屋久島→札幌→和歌山→大阪
昨年はたくさん移動しました。旅したというより移動した。自分にはどうしようもない大きな力で突き動かされていた気がするから。昨年を精算し消化せんとするこの一連の文字列も、そのボヘミアンな性格にあやかって滅裂な体裁で書き進められれば不親切でこの上ない。
因果とは直接には内発的なことも外発的なこともある。けれどその時その時の状況で一度立ち止まってみて、自分の中にある一番強い衝動を探り当ててみる。検知してみる。意識に上らせてみる。友人の言う通り、その深みに臨むときあらゆる意志はミルフィーユ状になっている。「俺はこれをしたい」の下には、「俺は本当はこれをしたくない」がいる。しかしてその下にはさらに「俺はやっぱりこれをしたい」がいたり、いなかったり。臆病者が武士道を学び、卑怯者がフェアプレーを志すことと似ている。または、愛したいのに愛せない、愛したくないのに愛してしまう、みたいな。ところで俺にとって一番強い衝動はその最下層にあるとは限らない。ある一層からの呼び声が大きいならそれでいい。その層の声の大きさこそが必然であり、自分にはどうしようもない大きな力の身近な発露であるはずだ。
卒業。人はそれを歌う。あるとき避けがたい節目としてやってきて、悲しいェ、離れたくないねェ、なんで終わってしまわねばならんのか、さんざ別離を嘆いては、しばらく経ったら次の環境でよろしくやっている。住めば都。順応。変わりたい。変わりたくない。変わりたい、変わりたくない。しかし、好むと好まざるとにかかわらずその変わり様が人を鋭くして、世界を拡げて、逞しくする。新しいものを知ることになる。成長するのだ。進化する。ううむこういう言い方は現代においては注意が必要だ。ただの変化に過ぎない事象に成長や劣化と名づけた瞬間に価値が発生する。善なるものと悪なるものが予兆される。しかし言い切った以上は僕はそこに善なる価値を置いている。そして人は成長すべきだ。卒業してしばらく経って、なお卒業すべきでなかったと言っている人がいれば心配だ。
問題はモラトリアムが終わったら誰も卒業のタイミングを教えてくれないことだ。時期も決まっていない。心地良い場所をおのずから離れる理由など見当たらない。今日も明日も明後日もここにいれば良いじゃない。だって、あったかくて、布団もあって、屋根もあって、壁もあって、友達もいて、冷蔵庫も洗濯機も炊飯器も電子レンジも包丁もお皿も食器用洗剤もスポンジも珪藻土マットも便器用ブラシもハンガーも三段ボックスも無線ルーターもみりんも傘も延長コードもカーテンも慣れた仕事も同僚も大体同じ金額の収入も名刺も自己紹介も悩みも愚痴も定期券も日課もあの喫煙所も常連の喫茶店もあるんだもん。でも人は成長すべきだ。執着は断ち切らねばならぬ。
そうして三月末、親しんだ横須賀と葉山を離れました。約三年、信頼できる仲間たちとかけがえのない時代を過ごしたと思う。そのためには皆が積極的な挑戦の只中に、それぞれが描き得る最上の野望、夢の結果としてそこに集まっている必要があった。消極的な現状維持にかかずらうならば、その先には緩やかな衰退が待ち受ける。攻めの姿勢。それゆえ脆い。脆いゆえに熱い交わり。でも、その奇跡のような共振を、俺はちゃんと奇跡だと知っていた気がする。楽しさの中の切なさを味わっていた気がする。終わってしまったことだからどうにも心許ない実感だけれど。
副作用として、大変な痛みを伴った。夏まではただひたすらに、その傷とその痛みを見ていた。すると、これまで歯牙にもかけなかった孤独と貧困がじわじわと創痍を化膿させて、痛みは血液に入り込んだようにたちまちに全身へ広がっていったのだった。俺はそれを見ていた。その様子を、ただ見ていた。見ている以外の選択肢もなかった。ふと映画『怒り』のセリフを思い出したりしていた。『泣いたって叫んだって誰も助けてなんかくれないんだよ』 誤解無きようにしておきたいが、この期間色々な人の肩を片っ端から借りて回っていたし、世界は優しかった。でも、こう、分かるかなあ。一番大切なものは自分以外には救えないんだなあ。
広島の山奥ですっ転んでバイクが廃車となり三週間歩けなくなった六月を超えて、七月は、夏をこちらから迎えにいくように南下して屋久島へ渡った。一週間くらい、テントと友達の家と車中泊で過ごした。日中、太陽が容赦なく背中を焦がしては、夜、海水がなだれ込んでくる温泉に浸かりながら星を眺める暮らし。あのフィールドで鬱々とすることは難しい。するとしたらヒステリー。亜熱帯の暑さと湿気を舐めていました。午前四時ごろにようやく人間が入眠出来る温度と湿気になるけれど、七時には激アチ太陽が出てくる。テントの中でキレてしまいました(笑)。
屋久島には色々な友達もいて、なんだか賑やかだった。そのすべてを書き始めるととりとめなく続いてしまうから、ここでは一つ印象深かったことを書き残しておこうと思う。側溝に脱輪している年配夫婦と出くわしたこと。その時こちらも車で走っていたのだが、道沿いでおじいさんが手を振って合図をしているのが見えた。行き過ぎてから戻ってみたらそのおじいさんの車が(れナンバーだったが)、溝にはまっていた。すでに同じような手法で捕らえられた男手が五人ほどいた気がする。中にはマッチョもいて、とりあえず持ち上げて溝から上げようとしてみるが上がらない。伝わらないだろうがその様子を少し述べてみよう。右前輪のタイヤが側溝に平行に落ち込んでいて、よしんば車を持ち上げられたとしても、後輪タイヤを横方向にずれ動かさねばならない。コンクリートに横方向のゴムタイヤを無理やり動かすのはよほどの力でないとダメだろう。しかし仕方がないから何度も持ち上げて試してみようという話になる。その時、すごく分かりやすい形で問題解決能力を試されている気がして妙に心躍ったのを覚えている。呑気に知恵比べしている感じ。自分のことじゃないから。顛末はなんてこともない。側溝のタイヤの下にその辺の石を積み上げてタイヤの下側が触れるようにしてから、車を運転席から動かしてみたら前輪が石の上で動いて溝から復活したのだった。長尺で言うようなことでもなかった。ともあれ、その時自分に知っているより生きていく力が備わっていることにやけに感動した。みんなでやったーって喜んだりして。おじいさんとノリよくハイタッチしてみたりして。「ほな」言うて何事もなかったように去ってみたりして。
そして、金で成立していない場所としての屋久島にどうしようもない魅力を感じた。もし脱輪現場が都内であればあのおじいさんもきっと道ゆく人に手を振ったりはしない。すぐに呼ぶ。JAFを。そして一万円くらいお金を支払って問題を解決する。横を通り過ぎていくマッチョと喜びを分かち合うこともなかったし、不穏なサングラスとハイタッチすることもなかった。金は個人主義なのだ。人は一人では生きていけないが、金があれば生きていける。生きていけてしまう。一人でできないことは金で人を呼べばいい。金を媒介した関係はいわば商品だ。商品にペコペコしたり、気を揉んだりもしない。そしてそれを楽だし単純だとのたまった唇で孤独を嘆く。また別の場所では、楽ではない、単純ではない関係の構築にどうにか値段をつけて買おうともする。何やってんだ。
裏を返すと、金がなければ一人では生きていけない。人が必要である。人を必要と出来るのだ! 俺は金に囲まれるより人に囲まれたいと思う。金があって一人で生きていけると豪語するよりは、人と連帯して一人では生きていけないと笑顔で弱音を吐きたい。
七月の終わりから青春18きっぷで東北を北上、能代で不夜城、秋田で竿燈祭りを見たのち五能線を堪能しながらまた能代へ南下、北上して弘前でねぷた祭り、青森でねぶた祭りに巻き込まれる。東北はお祭りに本気だ。まだまったく失われていないにっぽんがそこにあった。若い人たちが、その街で最も洗練されたイケてるイベントとしてお祭りを楽しんでいて素晴らしかった。俺の故郷の祭りなんてものはおじさんおばさんがなんとか伝統を繋ぎ止めているようなもので、もし親世代に付き合って法被を着て太鼓を叩いていたら、路傍から写真を撮られてクラスでおちょくられるかもしれない。俺が小中学生の頃、学校は覚えている限りモラルが終わっていて、冷笑と暴力が蔓延していた。以降俺は自分の心に故郷の嫌な子供達を飼っていて、彼らがどう反応するかいちいち伺ってしまう。彼らの冷めた目線は、自らの言動を立ち止まって精査する契機を与えてくれるが、一方で一心不乱に踊る東北の小中学生の前では自らの卑しさと品性下品と薄暗い濁りがただただ恥ずかしく、人知れず破裂し塵芥と化す気の小さい人格である。そんな彼らも今の俺の大切な人格的幅の広さの一つだと思えればそれも心地よい。
ここでこのnoteは終わります。
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