家出のすすめ 2025/2/20
寺山修司の家出のすすめを数年ぶりに読んだ。冒頭数ページは、もう自分にとってはかつて対峙し、そして解決した話題について書かれているようなガッカリ感を感じていたが、読み始めたら止まらない。これを初めて読んだのは確か青森で住み込みバイトをしていた時、仕事の中休みに、職場のホテルのロビーで同僚のおばちゃんがその辺で掃除機を唸らせているのを聞いていた時だ。きっかけは青森にいたということと、僕が尊敬していた先輩が初めてまともに喋った時(寒い日、深夜のコンビニ)に、好きな作家としてイの一番に挙げていたことがきっかけだったっけ。その時は僕にとって寺山修司は国語便覧に載っていたから知っていたようなレベルだった。でも何も知らないのはなんだか悔しいから、へえそうなんですねえと、話の次元を見識と勉強量の違いではなく、嗜好と機会の問題に矮小化した。それがずっと気がかりだったし、今をしてなおそんなことをこんなふうに記憶しているということは今をもってそれらの自分の卑屈さはまったく乗り越えられていないと痛感させられるが、まあそんなことは今となってはどうでもよい。
ともかくも、ついてしまった虚勢に実態を間に合わせる舞台裏のような恥ずかしさでこの本を買って読んだワケだが、これももうまったく過ぎ去った日々のことだから白状するが、内容をほとんど理解出来なかった。エッセーのような体裁を取ったフィクション然とした奇文を、そういうのをこねくり回すのが得意な著者がふざけて書いているのかを疑ったほどに意味が分からなかった。寺山修司が何に問題意識を感じていて、誰に家出をすすめていて、それの何が良いのかさっぱりだった。だけどここで諦めれば寺山修司も知らん文学部がおるかいとバカにされるのも癪だと思ってとりあえず文字は追いきった。しかし僕もよくよく考えれば変な感性だが、自分に理解出来ないものであればあるほどそれを自分の座右に置いておくことが格好良いと思っていたから、「家出のすすめは素晴らしい」みたいなテキトーなことを言って済ませた。これは、出鱈目の虚勢が己にハッパをかけて実際にそうなる、みたいな鍛錬ではなくて、卑劣で不勉強な若者のハリボテの虚偽であると、今日これを書いている現在そこまで手の内を明かして、この家出のすすめを数年来にして読み内容をそこそこに理解し、かつとんでもなく感動した僕の、この本に対する最大限の誠意とさせてもらおうと思う。
少し述べたが、この度この本を改めて読んでみて、まず第一に、「言っていることが分かる!分かる!」当時の自分はなぜこれが少しも理解出来なかったのかを少し検討する時間を要するほどに内容が入ってくる(だからこそこれはもう対峙し終えた話なのではないかという失望がセットでやってきたワケだが)。それは同時に僕の数年の過ごし方を肯定されたような限りない喜びでもあった。理解出来なかったことが理解出来た。これほどに嬉しいことはあるまい。そしてあまつさえ、もうこれは自分には終わった問題だと思えるこの優越感! 自分なりの答えの出ている問題について、自分がすでに転がしたことのある問題を扱っている本を皆さんはどう読むのだろう。自分は、特に読む価値を感じにくいと思う。そこにはそれこそ優越感や感傷のような非建設的なものしかないように思うから。だからもうその辺にして引き返そうかと思っていたが、それは間違いだった。実際この本はどこまでも深くて時に驚かせ、唸らせる無限の力があった。きっと20年経っても30年経っても僕はこの本に立ち返ると思う。というか立ち返りたい。立ち返る人間でありたい(つまりこの本が名実ともに僕の座右となった次第である)。
この本は家出のすすめ、悪徳のすすめ、反俗のすすめ、自立のすすめの4章から成り立つ。あとがきの竹内健も言う通り、この本に通底するのは寺山修司の故郷の観念である。彼はつまり文字通り青森の農本主義から家出同然で東京に出てきた若者であり、きっとそれをあらゆる東京での活動の原動力としていたのであろう。そう言う意味で、家出をすすめることは彼の生命線であると言ってよい。今風に言うなら、自身の成功譚を同世代に横展開することを狙っている、とでもなるのか。自身の経験をもとに他人に何かをすすめるとき若干の自画自賛は拭えないものだが、その辺は彼の魔術的文法によって匂いが打ち消されている。だからこそ、スッと内容が入ってくるのだし、そもそも家出を実際に行うことの勇気やリスクが大きすぎて、特にそれを羨ましいとさえ思わないだけなのかもしれない。
この本を書いたのはおそらく(調べないが)1960年代のことだと思われる。当時の社会の雰囲気なんてものは僕には分からないし、閉鎖された田舎も、母の太ももを垂れる生理の血も僕は知らない。彼が文中でしばしばあげる〇〇監督の映画「××」なんてのも分からない。だけど時代背景や各々置かれた立場を超えて訴えてくるものがある。詰まるところ彼は「自分の生きたいように生きろ」それだけを言いたのではないかと思うのである。これはなかなか難しい。今にして思うと、「自分の生きたいように生きる」ことが一体どれだけ困難なことなのか、その問題に正面からぶつかったことのない人にその難しさを説明することも難しい。もっと言えば「自分がどう思っているか、正しく認識せよ」ということだがこれも難しい。その難しさについては、その辺の小学生に「今どう思っているかを自分自身で知ることって難しいよね〜」と問うてみたら分かる。たいがい返事は「難しくないよ!俺は今鬼ごっこがしたいって知っているもん」といった具合になる。自分が本当に鬼ごっこがしたいのか、あるいは周囲の友人との流れに意識的にせよ無識的にせよ流されているだけである、といったところへの反省は感じられない。反省なき思念体に自分が本当はどう思っているかを正しく認識することは難しい。なぜかというと、その反省こそが自分がどう思っているかを正しく認識するということそのものだからである。
就寝時間が近づいた。きっと寝て起きれば僕は違う人間になっている。あと30分もあればこの文章は完結するであろうがその時間もないし、明日継ぎ足そうとしても無理だろう。よってここまで。流されるな。自由を求めよ。今の生活に桎梏を感じるならば、脱出せよ。今の生活に不満があるなら、脱出せよ。今の生活に不満がないならば、なおさらに、脱出せよ。
幸福な家庭から家出するのには名分がない。勇気がいります。
本文より
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