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ランダムワードエッセイ1 「マグリット,そして教師たちの喫煙」

※「ランダムワードエッセイ」とは,  ランダム単語ガチャ(https://tango-gacha.com/)で出た単語について,私こと道の上が体験談や思ったことなどをつらつら書いていくという企画です。


 枕元にジョン・レノンが現れて,私に「エッセイを書け」と命じたわけでは勿論ないのだが,そう勘違いされても仕方がないほど唐突に,私はエッセイを書くことにした。問題は書く内容をまるで思いつかないことであるが,どうせ思いつかないのならば偶然の力に頼ってしまおう。ということで遠路はるばるランダム単語ガチャ先生をお呼びした。20年近く生きていればそれなりに話題の引き出しは増えているし,どんな単語が出てきてもそれらしいことは言えるはずだ(こういう根拠のない自信の下で私は生きている)。

 というわけで「ランダムワードエッセイ」が始まる。この企画がどのくらいの頻度で,どれだけ続くかはわからない(もしかすると初回で打ち切りかもしれない)が,まあ書く方は気楽にやっていこうと思う。別に金貰ってるわけじゃないのでね,適当でいいんすよ。適当で。

 んじゃ,よろしく。


 ルネ・マグリットが描いた『イメージの裏切り』という絵画がある。簡単に言うと,喫煙具のパイプの絵の下に「これはパイプではない」というフランス語の注意書きが付されている作品で,その主題はいかにもシュルレアリスム的だ。どんなに精緻に描かれたパイプであっても,それは紙に描かれている以上絵でしかなく,パイプではありえない。もしも絵のパイプにタバコを詰め,火をつけたら痛い目に合うことになる。
 
 などというそれっぽい芸術論は後付けのもので(そもそも私はシュルレアリスムの定義さえよくわかっていない),この作品を始めて見たときに私の脳裏をよぎったのは,幼少期によく母親と行っていたスーパーマーケットの光景であった。正確に言うならば,スーパーの片隅に設置されたタバコの自動販売機の光景である。

 幼い私にとって,自販機に並ぶタバコのパッケージのすべてに「喫煙は肺がんのリスクを高めます」「ニコチンには依存性があります」といった注意書きが付されているのは不思議なことであった。世の中は「商売」というものを行うことで成り立っており,商売においては商品が売れた方が嬉しい,ということくらいは既に知っている。それなのになぜ,タバコには購入を躊躇させるようなことを書くのだろうか。もしかするとタバコ業者の縛りプレイなのだろうか(とは,当時の私は考えていないが)。

 「自分はパイプではない,と言う絵としてのパイプ」と「自分を買わない方が良い,と言う商品としてのタバコ」,主張の意味は大きく異なるものの,両者は共に自己否定を行う喫煙具(のイメージ)である。この類似点が,絵を見ていた私に幼少期に感じた疑問を思い出させたのだろう。と,ひとまず納得した私の脳裏には,しかしまた新たに浮かんでくる光景があった。それは高校時代の昼休み,校舎の4階にある部室で弁当を食いながら眺めた光景である

 歴史の長い男子校で,教師にも卒業生のオジサンが多い私の高校には,だからかは知らないが喫煙者の教師が多かった。校舎内での喫煙が禁止され,自宅でも家族から「吸わないでくれ」と文句を言われている彼らは,昼休みに裏門から敷地外に出ると,一面に広がる田んぼを眼前に紫煙をくゆらすのを習慣にしていた。4階から見ると,校舎の裏手に見覚えのある顔が何人も並んでいるのがよく見える。その光景は,見る人が見れば頭を垂れる稲穂と空に昇っていく煙を対比させて美しい句を詠んだだろうし,見る人が見れば教育的でない,近隣からの目を気にしていないのか等と文句を言ったことだろう。しかし,今になって私は疑問に思う。そもそもなぜ彼らは喫煙を始めたのだろうか。

 それは恐らく,彼らの周囲の人やキャラクターが当然のようにタバコを吸っていたからではないだろうか。未成年の彼らにとって,タバコはカッコいいもの,もしくは大人の象徴であったと推測できる。しかしそのイメージに従って喫煙習慣を身に着けた結果,彼らは少なからず財布や健康にダメージを受けることになったのは間違いない。言い換えると,彼らはイメージに裏切られてしまったのである。

 すわ,「イメージの裏切り」!

 ここに,「物体」と「行為」の決定的な違いを述べることができる。絵に描かれたパイプはパイプではないが,パイプの実物は間違いなくパイプである(パイプはパイプ,トートロジーだ)。しかし,喫煙という「行為」ではどうだろう。実は私にとって,次元大介の喫煙と自分の数学教師の喫煙は(虚構と現実という大きな違いがあるにもかかわらず)等しく喫煙の「イメージ」なのである。なぜならば,「行為」は実際にそれを経験しなければ「イメージ」から脱却することができないからだ。実際のパイプを見てパイプを理解することはできるが,実際の喫煙を見て喫煙を理解することはできない。喫煙を理解するには,実際にタバコを咥えて火をつけ,息を吸い込むほかない。マグリットになぞらえるならば,本を読む男の背中に「これは読書ではない」という張り紙を貼ることだって可能なのである。

 そう考えると,我々はなんと多くの「イメージの裏切り」を経験していることだろう。「勉強」のイメージ,「恋愛」のイメージ,「努力」のイメージ,イメージだけを見て理解した気になって,何度失敗したことだろうか。あの昼休みに屋外の喫煙所に並んでいた教師たちは,さらに多くの裏切りに合っているに違いない。「労働」の裏切り,「結婚」の裏切り,「大人」という属性そのものの裏切りもあるだろうか。皆それらを乗り越えて生きているのだと思うと,全く大人というのは大したものである。


 大学に入学してから,未成年にもかかわらず喫煙や飲酒を行う不届き者の話をときたま聞くようになった。その者たちもまた,「法で禁止されていることをする」という行為のイメージに影響されているのだろうが,自分たちの「悪さ」を露骨に押し出すという行為にどこかデジャヴを感じる。

 そうか,タバコのパッケージだ。自分の悪いところ(得てして,それは同時に自分の弱点でもあるのだが)を外に向かって喧伝し,それによって他人から避けられることもあるが,その「悪さ」のイメージに影響された者が周囲に集まってくる。これはパッケージに警告表示を載せているタバコと,未成年ながらそれを吸う若者たちに共通するイメージではないか。そして「悪さ」の部分を別の形容詞に変えれば,この話題は不良少年たち以外にも広く当てはまるようになる。

 教員の多忙化が叫ばれる中何度もお呼びして申し訳ないが,私の高校時代の教師たちは「タバコがやめられない」「奥さんに怒られた」「学生時代は失敗だらけだった」という話をするときに,皆どこか嬉しそうな表情を浮かべていた。彼らもまた,失敗談という形で自分の恥ずかしい部分,弱い部分をさらけ出すことで,一種の充足感を感じるとともに,周囲に受け入れてもらおうとしているのだ。巷にあふれる失敗談や,自分の無能力さをことさらに強調するような言説(Twitterでよく見る)も,ある意味でタバコのパッケージのようなものではないだろうか。そしてそれは,イメージに裏切られた際にそれを受け入れるための,1つの手段でもあるのだろう。

 もちろん以上の話は,エッセイを書くという行為のイメージに裏切られながらも(想像の10倍労力がかかった),それを笑い話にすることでオチをつけようとしている私にとっても例外ではない。



今回の単語 ……「喫煙所」

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